まだ反知性主義と「曲学阿世」&南原繁のこと

1. KONO Takeshiさん、コメント有難うございます。朝日と読売を1年ごとに交互に購読するというのは面白いですね。どちらも断りきれないというところにお人柄が出ているのかもしれません。
主義主張の違う両紙を読み比べることは大事だろうと思います。
憲法論議がいま盛んですが、「合憲」と主張する憲法学者も少数ながら居る、そういう意見にも耳を傾けるべきでしょう。一刀両断はよくない。

この件で長谷部・小林両教授の「違憲」論が話題になっていますが、お2人が6月15日「日本外国特派員協会」に登場しました。その模様を同協会で検索して動画で見ることが出来ます。

こんなのを見る人は少ないでしょうが、私には、特に、質疑応答が面白かったです。
東京新聞は詳細に報道しましたが、大手の新聞はおそらく無視したでしょうね。

2.実は面白いと思ったのは、ネット上に公開されて生中継されるので外部のコメントもあります。ここに以下のようなコメントを見つけました。

QUOTE「ゴミ学者(曲学阿世の徒)の妄言、救いようがない。 たわけ!!
こういうゴミに同調する日本人もどきは許し難い!!」UNQUOTE


3.もちろん「合憲」と主張する学者も居ますから、長谷部・小林の2人の意見に反論し批判する人もとうぜん居るでしょう。
それは一向に構わない。しかし、「批判の仕方」というものがあるのではないか。
このコメントは実に面白く、読みながら、なるほどこれが反知性主義か、と納得しました。
その特徴を私なりに整理すると以下の通りです。


(1)まず、日本語に品が無い。もちろん「今は誰もがこういう日本語を使っている。どこが悪い!」と当人から反論されそうで、ひょっとしてそうかもしれません。それだけ私たち全ての日本語が劣化したということでしょう。

(2)次に、感情論だけで、なぜ「ゴミ学者」と判断したかの理屈は何も書いていない。
もちろんこれも「何を言うか、いまは理屈なんかじゃなく、感性の時代なんだぞ」
と反論されそうです。
私としては以下を思い出しました。


「いまや狂気の時代なんだそうだ。つまり知性じゃなく感性とかなんとかだ。まあ、おれには、どうして感性やなんかが知性から切り離されて存在するのか、全く分からないけどね。でもそんなことを言ってみても始まらないんだ・・・」


もう40年以上も昔、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中で日比谷高校3年生の小林君が友人の薫君に言う言葉ですが、書いている作者はこのとき32歳です。
何れにせよ、知性はもうこの時代からこけにされていたのですね。


(3)に、これは推測で間違っていたら謝りますが、おそらく当人は、2人の著作を読んだことはないし、1時間30分の2人をめぐる質疑応答をきちんと最後まで見ていないのではないか。
つまり中身を検証せずに、批判する、これが「感性の時代」の特徴かもしれません。


(4)最後に実は私にはここがいちばん面白かったのですが、そのくせ
曲学阿世の徒)なんていう難しい言葉を知って使っているということです。
つまり反知性とは、他人の知性に我慢がならないが、自らはけっこう知性の持ち主である?
おそらくインターネットでこの言葉、「違憲」発言に絡んで頻繁に登場しているのではないか。そこから知った情報なのではないか。
(こういう人たちはたぶんインターネットの操作能力はまことに高い。私の10倍ぐらいはあるでしょう。この点も敬意を表します。とても太刀打ちできない)。


4.もちろん発言者が(曲学阿世の徒)事件をどこまで承知しているかは分かりません。
そこで、このブログで多少、雑な知識を披露しておく意味もあるかなと思い、今回はこの点について触れておきます。


(1)ご存知の方はこれ以上読んでいただく必要はありませんが、講和条約締結にあたって、1950年、国連中心の全面講和かアメリカ主導の単独講和か(戦勝国である当時のソ連や中国が参加しない)で国論が2分する事態が起きました。
このときの首相吉田茂は後者を進めようとし、これに当時東大総長だった政治学者の南原繁が全面講和を主張した。
代表的な知識人であった氏の発言の影響力を懸念した吉田首相は、「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論〜」と非難。これに氏が強く反発して、世間を騒がせました。この年の流行語になりました。

(2)以下、詳しく触れる紙数はありませんが少し補足すると・・・・
今回が「合憲か違憲か」という法律論であるのに対して、この時は「べき論」(全面で行くべきか否か)の議論ですから、政治主導で行かざるを得ないのはやむを得ず、その意味では吉田首相の気持も理解できます。
しかし、南原さんを「曲学阿世」とはこれは大失言と言うべきでしょう。

(3)南原さんは、丸山真男を東大の助手に採用した恩師で、丸山は「南原先生から受けたものは・・・影響が大きすぎて一言では言えないのです」と、『回顧録』で何度も彼について語ります。

東大時代に共産党に入党したことがある辻井喬(本名堤清二西武百貨店の社長もした)は、「吉田茂と南原総長の2人に何度も会った」として、
吉田茂も、魅力のある人物であった。ただし、それは自分が中心の場合に限るのだ。敵対的な相手への無愛想は普通の官僚の比ではなかった」。
他方で「南原総長は謹厳そのものに見える」とし、「当時の左翼と言われた人びとも、執ようにかつ組織的に南原総長を攻撃した」と書いています。(『南原繁の言葉』東大出版会2007所収)
総じて彼はこの事件について吉田首相の方に批判的ですが、長くなるので省略。

(4)因みに南原さんは後年この事件を回顧してこう言っているそうです。
――あれは吉田さんともあろうお方がちょっとやはりどうかしておったんじゃないですかな。・・・まことに礼儀正しい人ですよ。
あの当時、自由党内にも人なくはなかった。吉田首相の言が大きく新聞に報道された翌朝、古島一雄翁は首相公邸にどなりこんで、「曲学阿世とはなんだ、それは東條のいうことではないのか。反対論を認めぬというのは民主政治ではない」「講和はたとえ現実に単独講和に追い込まれるにせよ、日本世論は全面講和で沸騰していなければならんのだ」と――『南原繁対話・民族と教育』東大出版会
ウキペディアによると古島一雄は「ジャーナリストから政治家へ。昭和21年に日本自由党総裁の鳩山一郎公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された」とあります。

当時はなかなか立派な保守政治家がいたものだと思います。