東京新聞,反知性主義,そして鷲田清一さんとオルテガ


1. 前回のブログで、もう梅雨だというのに快晴の1日があり、蓼科高原は蓮華つつじが満開で、北アルプスから富士山まで丸見えだった、と書きました。
同行した友人がその折りに撮った写真を送ってくれましたので載せておきます。
こなしの花も山々も美しく写っています。


2.前々回のブログでは翁長沖縄県知事辺野古移転反対のスピーチで琉球語を使ったという東京新聞の報道を載せました。
我善坊さんからコメントを頂き、遅くなりましたが、有り難うございます。
「こういう話こそ中央の大マスコミが真っ先に伝えなければならないのに、他では聞いたことがない。大マスコミの頽廃ぶりを見るような気がします」とあります。
この東京新聞、神奈川在住の我善坊さんの目には触れないでしょうが面白い新聞です。
特徴としては、
(1)前身の都新聞(明治19年〜)以来、芸能・文化・スポーツに強い。
松井選手の引退、やなせたかし氏や高倉健氏の死去など何れも1面トップ記事で大きく報道します。
(2)日本の新聞に珍しく署名記事が多い。1面のトップ記事も署名入りをよく読む。
かつ名前を見ると女性の書いた記事が他紙より多いようだ。
(3)どこの新聞でも同じように読めるニュースより独自の取材記事が目につく。
例えば6月12日(日)の1面トップは「飯館村の山、除染手つかず」という見出しの同紙独自の調査にもとづく署名記事。こんな風に3.11のフォローも丁寧です。
(4)「独自の」という点では、「筆洗」(日経の「春秋」朝日の「天声人語」に相当)「こちら特報部」「心にふれる話」「大波小波」「本音のコラム」などの特集記事やコラムが面白い。
このうち後ろ2つは外部の寄稿で、「大波小波」は都新聞以来よく知られ、著名な人が匿名で批評しているようです。「本音のコラム」は実名で、今回の翁長知事の話も、ここに佐藤優氏が書いてくれました。

3.我善坊さんのコメントに
「この知事の“知性”を感じます」といういい言葉があり、また前回の長谷部恭男氏他の「違憲」表明にからんで「反知性主義の席捲」と書きました。
今回はそこで、「知性」とは何か?
を、斜めから考えてみたいと思います。
たまたま、渋谷の丸善ジュンク堂を覗いていたら写真のように「反知性主義」に触れた書物をまとめた棚がありました。それだけいま話題になっているのでしょう。


面白いと思ったのは、「文学界」という純文学が専門の文藝春秋発行の月刊誌が「反知性主義に陥らないための必読書50冊」として文学者・知識人など50人が各自1冊の本をあげていることです。
立ち読みですが、『知性の正しい導き方』(ジョン・ロック)『ソクラテスの弁明』(プラトン)あるいは『日本文化における時間と空間』(加藤周一)なんていう硬い本もあり、
春と修羅』{宮沢賢治}『坊っちゃん』(漱石)『豆腐屋の四季』(松下竜一)といった意表をついた選択もあり、
『逝きし世の面影』(渡辺京二)だけ2人があげているのも面白い。
これらのうち『豆腐屋の〜』を除いてはさいわい既読ですが、
50冊にあがっていないけど「私なら何を選ぶか?」と僭越にも考えるのが、庶民の愉しみでしょう。

4.私なら、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』とオルテガの『大衆の反逆』のどちらにするか迷うだろうな、と考えました。
長く触れる紙数はありませんが、どちらも過去のブログで紹介したことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20120112
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20120117
例えば、『赤頭巾ちゃん〜』の中で、ぼく(薫君)は丸山真男がモデルの大山先生との会話を楽しく続けながら、こんな風に語ります。


・・・・たとえばぼくは・・・知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど・・・・・・


5.まあ「赤頭巾ちゃん〜」は私の偏愛で50人が誰もあげないのは仕方ないと思いますが、『大衆の反逆』の名前が出てこないのはかなり残念だなと思って帰宅して、その日(12日)の東京新聞夕刊を拡げたら、鷲田清一氏(哲学者・京都市立芸大学長)がオルテガに触れている文章があり「我が意を得たり」と嬉しくなり、さすが東京新聞とまたまた気に入りました。


「歴史に学び直す力を」と題して「大波小波」の隣に載った文章です。
冒頭を引用します。
―――この一年、わたしがおそらくもっともよく開いたのはオルテガの書き物である。とくに『大衆の反逆』(神吉敬三訳)。(1930年出版なのに)どの頁をめくってもまるで現在の政治のあり方、教育のあり方に警鐘を鳴らしているとしかおもえないような文言が眼を射る。例えば?―――


として鷲田氏はオルテガの言葉を引用します。
――「賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている」――

そして、鷲田氏はこう続けます。
――質問に立った野党議員の「人の生き死に関わる話です」という発言のその最中に、席に身をもたせかけたまま「大げさなんだよ」と、薄ら笑いをうかべて言い放つ首相。―――

『大衆の反逆』についても、たびたびこのブログで紹介しています。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20110218
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20110220
上のブログでは、たまたま上記の鷲田氏の引用と同じ個所を私も引用しました。
高名な哲学者と同じ言葉に惹かれたということが、ちょっと嬉しく、この記事を何度も読み返しています。
もちろん私のブログの引用は4年も前ですから某首相と結びつけてはいません。

鷲田氏は、こう書いた上で、さらに以下のように続けますのでそこを引用して終わりにいたします。
―――その姿をテレビの映像で見て、とっさに右の言葉(注:「賢者は〜」のオルテガの警句)を思い浮かべた。
が、その直後である。
ああ、おまえもまたソファに深く腰掛けて答弁者の言葉を揶揄しているだけではないかと、言葉がまっすぐ自分のほうにはねかえってくる。
オルテガの文章の凄さは、たぶん読む者に向かってこのはね返りを突きつけるところにある ――

引用までは同じでも、こういう洞察にまで至るところが、鷲田氏の知性と庶民の私との大きな違いだろうと思いました。