『沈黙』は異端か?日本人にキリスト教は根付くか?


1. 我善坊さんの丁寧なコメントおよび、フェイスブックでもいろいろ有難うございます。
我善坊さんの「『沈黙』はやはり異端ではないのか?」と
FBからの「日本人にキリスト教は向かないのではないか?」
の2つは重なり、ともに重要な論点だと思います。

これこそまさに、母親の意志で11歳のときに洗礼を受けた遠藤周作にとって、生涯の課題でした。
そして、ロドリゴ神父に「踏むがいい」という神の声が聞こえる、そういう神があってもいいのではないか、それが「和服のキリスト教」ではないかと彼は考えたのでしょう。


2. 反論や批判があるのは当然で、ロドリゴに棄教を迫る井上筑後守江戸幕府の基督教弾圧の責任者・奉行)がそういう意見を代表します。

「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己(おの)が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」
ロドリゴに向かって井上はこう言い、対してロドリゴは、

――基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も・・・自分の今の心を理解してくれまいという気持が、言いかけた言葉をのどに押しもどした。――
そして江戸に送られ、屋敷に幽閉され日本人名や妻をめとることを応諾して会見を終えた彼は、
――(・・・あなたにたいする信仰は昔のものとは違いますが、やはり私はあなたを愛している)
とキリストに語りかけます。

フェレイラ神父と井上筑後守は実在の人物です。フェレイラはロドリゴの師で日本でのイエズス会の責任者だったが、拷問をうけて棄教し、いまは沢野忠庵という名を貰っている。
再会したロドリゴに、彼はこう言います。
「二十年間、私は布教してきた・・・知ったことはただこの国には私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ。
・・・日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」
そして、
「もし基督がここにいられたら・・・・彼等のために転んだだろう」と。


3. 小説にはもう一人、重要な登場人物がいます、それがキチジロー。
踏絵を踏み、ロドリゴを裏切り、役人に売り渡した憎むべき男。
しかしながら信仰を捨てきれず、いつまでもロドリゴについてまわり、岡田三右衛門となったもと司祭に「告悔」をきいてほしいと罪の許しを願う男。

『沈黙』の本文はこの場面に続いて、

――ロドリゴはキチジローに向かって
「この国にはもう、お前の告悔をきくパードレ(神父)がいないなら、この私が唱えよう」と言い、さらに
“自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。
聖職者たちはこの冒涜の行為をはげしく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切っていない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。
私がその愛を知るために、今日までのすべてが必要だったのだ。・・・
そしてあの人は沈黙していたのではなかった。
たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた“
と自覚するところで終わります。
「キチジローは私だ」と遠藤は語ったそうです。


以上、キリスト者でもない人間が「不遜にも」本書を紹介してきました。
因みにスコセッシ監督の映画の影響が大きく、新潮文庫の「沈黙」がベストセラーのリストに載るほどいま売れているそうです。
発行部数が累計で2百万部を突破したと、1月末の新聞記事にありました。


4. 宗教について語るのは、まことに難しいです。
私も人並みに「初詣」に行ったり、孫が大学受験をした昨年は家人と一緒に湯島天神に「合格祈願」のお参りに行ってお守りを頂いたりしてきましたが、こういう「現世利益」を願うのは、宗教とは言えないのでしょうね。むしろ日本人の「風習」であり「文化」の一部でしょうか。

絶望して「転んだ」フェレイラ神父が嘆いたように、「日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」のでしょうか?


他方で私の周りに、クリスチャンは結構多くいて、そのうちの1人から新年早々、信者としての日々を書いた書物を頂きました。
彼は60歳近くなって仕事をやめてから自分の意志で入信しました。だから、遠藤周作と異なり、以来信仰を疑うことも悩むこともなく、むしろ自分なりに伝道したいという熱意に燃えているのだろうと思いながらぱらぱらめくっていると、こんな1節が目に入りました。


―――「先週元職場の同期会があった。やれトランプがどうだ、やれヒラリーがどうしたと、米国大統領の「床屋政談」に花が咲いた。終宴近くにやや揶揄気味に発言した、「よその国の大統領の心配もいいが、少しはてめぇーの死後のことも心配したらどうだい。おめぇーさんたちももうすぐ死ぬんだぜ」・・・・・

「元職場の同期会」というのはここ20年以上、毎月やっていていつも10人ほどの常連が集まります。全員が海外勤務が多いせいで、国際問題への関心は高く、最近はもっぱらブレクジットとトランプの話題です。最初に講師が資料をもとにプレゼンをしてその後活発に話し合います。

80歳近くになってもずいぶん真面目な話題に好奇心をもっているものだと仲間内を誇りにも思い、感心もしているのですが、上の文章を読んでいささか反省しました。


こういうのを「床屋政談」と呼ぶのも初めて知りましたが、さはさりながら、これで会の運営や内容が変わるとも思えません。
この本を皆が頂いた後の2月の例会もやはり、大統領就任後のトランプとフランスの大統領選の資料説明があり、安いワインを飲みながら大いに議論を闘わせました。
「死後のこと」はおろか病気のことも一言も話題になりませんでした。

もちろん皆それぞれに健康の悩み、体の不具合、そろそろ近づく終末への思いを抱えている筈ですが、こういう話題を他人に喋るのは避けようという意識もあるようです。
病気や私事・内輪の悩み、どうやって死を迎えるかや宗教の話などは心の中にしまっておけばよいことで、他人にはしない。これも一つの「矜持」ではないでしょうか。
それとも、これも長い海外勤務で学んだ「社交の在り方」でしょうか。