小さい薔薇の花と、「待賢門院」&「堀河局」

1.文字通り猫の額ほどの庭の片隅で、二年前に調布の神代植物園で買った薔薇の小さな花がまた元気に咲きました。散っては、また何度も花を咲かせます。
薔薇を自分で育てるほどの庭の広さも元気も知識もありません。しかし見ていると、この花がその棘もあってか、美しいというより、いかに強い「剛毅な」花かと痛感します。
英国人が好きなのも頷けるように思います。


何となく、中世の日本女性の姿に似ているように感じることもあります。

2.コメントを頂くのが有難く、この拙いブログを続けている大きな理由の1つで、まことに勉強になります。
今回も、女性についてのフェイスブックのコメントです。
Masuiさんからは
「50歳後半にやや小さな会社の社長になったので、思い切って女性の活躍を実現しようと、課長ポストを増やしたり、女性の自立を高める業務教育を徹底して行いました。しかし思惑の通りには行きませんでした。その原因は男性です。必要だったのは男性の教育だったのです。スタートが男性社会なので、まずは男性が女性を使いこなす力を持たなければならなかったのです。」


また岡村さんからは、
「日本人ガイドさんが「こちら(スイス)の人は主人が亡くなったら奥さんは後を追う様に亡くなられるのに、日本ではご主人が亡くなったらどうして奥さんは急に元気になるの?」・・・と質問され、
女性会のグループを見た外国人から、夫婦で旅行しないで、何故女性だけで旅行するのか?と訊かれた。お客さんは「何で主人と行かんならんのん。楽しめへんやん!」と即答」


何れも実に興味深い情報です。
ここから考えたのは、
「日本は男性社会・・・」
という指摘もそうかもしれないが、むしろ
「男性と女性の間に見えない壁(チャイ二―ズ・ウォール)があって、両者があまり交わらない社会ではないか」ということです。

その点でも、中世の「和歌」は、男性と女性との間に「歌」を通した「心通じる文化」があったという気がしています。

3.前回に、「和歌には“返し”の文化」があるという話をしました。
例をあげましょう。
(1)待賢門院(藤原璋子)は、鳥羽天皇中宮。崇徳、後白河両天皇の生母です。
鳥羽院の寵愛が美福門院(藤原得子)に移ったこともあって、1142年、42歳で出家して、3年後、45歳で死去します。

(2)当時の超一流の歌人西行はもと鳥羽院に仕えた北面の武士
文武両道に秀で、前途有望だった当時の佐藤義清(のりきよ)は、23歳のときに妻子を捨てて出家し、西行となります。
出家の理由はよく分かっておらず、権力闘争に明け暮れする宮中にうんざりした、親しかった従兄の急死に衝撃をうけた・・・等々と並んで、この待賢門院に対する恋があったのではないかという推測が昔からされています。
もちろん身分も違い、年令も17歳、待賢門院の方が年上だったので少し無理もあるようにも思います。

しかし、辻邦生の『西行花伝』はフィクションですが、2人の一夜限りの逢瀬を小説に取り入れ、
他方で白洲正子の評論『西行』によると、西行は、待賢門院に幼いときに亡くなった母の面影をみて慕い・憧れ、身分違いから想いはかなえられず、その失恋が出家の原因の1つだったと推測しています。


(3)それはともかく、

まず待賢門院逝去のときに、長年仕えた女房の堀河局(つぼね)――ご主人を追って自らも出家した――が悲しみの歌をつくりました。

<君こふる、なげきのしげき山里は、ただひぐらしぞ、ともに鳴きける>

悲しみを抑えた、いい歌だと思います。
因みに、堀河局(待賢門院堀川とも呼ばれる)は当時の有数の歌人の1人で、藤原俊成が編纂した「千載集」に15首も選ばれています。
定家が編んだ「小倉百人一首」には以下の歌があります。
<長からむ、心も知らず黒髪の、乱れてけさは、物をこそ思へ>

(大意――長く変わらないお心であるかどうか、わからずに、(お別れしたばかりの私の心は)寝乱れの黒髪のように、心乱れて、今朝はあれこれ思い悩むのです)
これはまた、悩ましい恋の歌です。誰に送ったかはもちろん分かりません。架空の恋人かもしれません。

(4)逝去の知らせが、堀河局から西行のところに届きました。
「残るのは悲しみだけであり、死の思い出が遠くなっても、それは薄れない。いや、薄れないどころか、かえっていっそう深く、濃く、痛切になる。女院は、私にとって、薄紅色のしだれ桜に囲まれた優しさであるとともに、散りしきる花に似た悲しみでもあった。
 そんな思いを私は堀河殿に書き送った」(辻邦生西行花伝』)

<たづぬとも、風のつてにも聞かじかし、花と散りにし君がゆくへを>
(大意―亡くなられた門院は、風に散る花のように行方がわからなくなっった、いくら尋ねようとしても、なしのつぶてです)

堀河局はすぐに「返し」を西行に送ります。

<吹く風の、ゆくへ知らするものならば、花と散るにもおくれざらまし>
(大意―門院の行方を風が知らせてくれるものなら、すぐにでもあとをお慕いし、ついていきたい気持ですのに・・・)

因みに、西行と堀河は西行が出家してからもたびたび交流があったようですが、彼女は待賢門院よりさらに年長で、2人の間に恋情があったとは考えられません。
しかし、このように、先に逝ってしまった美しい女性に対する追慕という1点では、悲しみを共有しており、「歌」を通して、この二人が心を通い合わしているという状況が伝わってきます。


(5) そして、冒頭で紹介したMasuiさんが、和歌や俳句の日本文化にも触れて、
「日本文化には余白に語らせるという独特なものがあります。
絵画でも余白を造り(等伯の絵画など)家屋や庭でも借景を使うとか、俳句や和歌などもできるだけ短くしてリズムをつくって、意図的に余白に語らせています。
正に作者と読者とが対話をしながら共鳴することによって価値を高めているのではないでしょうか?」
と書いておられます。なるほどと思いました。
短い詩形であるだけに、「余白」にこそ美しさがある・・・・・。

上にあげた、2人の男女の「歌」と「返し」には、まさに、言われるような「余白」が伝わってくるように思いますが、如何でしょうか?