生誕900年の西行の生きた時代と「紅旗征戎吾が事にあらず」

1. 前回は、和歌の「返しの文化」について、待賢門院堀河と西行のやり取りの実例を紹介しました。
Masuiさんから「男女は単なる平等であればよいだけではなく、その間に強いレゾナンスが生じ、1+1が2になるのではなく、その何倍にもなるところが真の平等ではないでしょうか?」というコメントを頂き、ご指摘の通りだなと感じました。
「レゾナンス(resonance)」とは、辞書には「共鳴・共振」と出ていますが、
男女も「うた」を通して対等に交流する、「返し」という美しい日本語の方がこの言葉のニュアンスをよく表しているように思います。

2.前回、「返しの実例」を紹介したのは、辻邦生の『西行花伝』からの引用です。
昔の職場の先輩が自宅で小さなサロンを年に数回開いています。もと同僚やその夫人が集まり、毎回テーマを決めますが、内外の小説を取り上げることが多いです。

メンバーは男性5人、女性4人と男女のバランスが取れていることも特徴です。女性のうち3人は夫婦での参加ですが、あと1人は未亡人です。
サロンは通常平日の午後5時半に集まります。軽い飲み物と出前のお弁当を頂き、紙コップの珈琲を飲みながら暫くは雑談です。
そのあと予め決められたテキストを皆が読んでいるという前提で、発表者によるプレゼンテーションのあと、全員で活発に話合います。


3.直近のサロンが5月21日に開催されて、『西行花伝』がテキストで私がレジュメを作って発表しました。
ということで以下、西行と彼が生きた時代について簡単に補足します。
(1) 西行は、平安末期の1118年に生まれ、鎌倉幕府開府の2年前、1190年57歳で没しました。今年は生誕900年に当たります。

(2) この時代は、「わが国の乱世中での代表的な一大乱世」です。朝廷の権力争いは「保元の乱」(1155年)で頂点に達し、武士が台頭し、平家が栄え、源氏に滅ぼされる、摂関政治から武家政権へと移行する。



鴨長明がこの「乱世」を振り返って「方丈記」を書いたのはのちの1212年です。
しかもその「乱世」にあって、俊成、西行、定家、式子内親王後白河法皇の皇女)のような超一流の歌人が活躍する、他方で、1175年には法然が浄土宗を開くなど大衆に密着した新宗教が生まれる・・・とまことに興味深い時代です。
因みに、堀田善衛は『定家明月記私抄』の中で定家の歌にふれて、「それは高度きわまりない文化である。中国だけを除いて、この12世紀から13世紀にかけてかくまでの高踏に達しえた文化というものは人間世界にあって他のどこにも見ることがない・・・・」と驚嘆しています。

(3)その定家は、1181年の19歳から漢文で書き続けた日記「明月記」の冒頭に、
「世上乱逆追討、耳に満つといえども、これを注せず。
紅旗征戎わがことにあらず」という有名な言葉を書きました。
「紅旗」は朝廷の旗のこと。「世の中は、権力争いや戦いに乱れに乱れているが、自分には関係ないことなので(none of my business)この日記にはいっさい書かない」というほどの意味。
「芸術至上主義者としての旗幟を明らかにした若き日の定家」と堀田善衛は評します。


(4)他方で、その前、1140年にまだ23歳の佐藤義清は、鳥羽上皇に仕える北面の武士(宮中を守護する兵士で平清盛も同僚)を辞して出家し、西行となり、一生を歌に捧げる決意をします。

西行の出家の理由には諸説あり、鳥羽上皇中宮待賢門院への恋もその1つと推測する人もいます。しかし、天災・人災と、醜い権力争いに嫌気がさしたということもあったでしょう。


4.ということで、今回は、西行の時代、当時の宮中の争いについて触れることにします。

(1)「乱世」と言われる根本の原因は、「誰が天皇の位につくか」という権力争いだった。
その背後には中宮を差し出し、娘の生んだ子に天皇を継がせたいという思惑があり、これが武士の台頭によって、武力をもった人たちがそれぞれの勢力に組みすることで、いっそう激しい戦いに発展した。その頂点が「保元の乱」である。

(2)まずは、白河法皇が「院政」を始めたといわれるが、この時代、
天皇は、「白河」➜「堀河」➜「鳥羽」➜「崇徳」➜「近衛」➜「後白河」・・・・
と目まぐるしく変わる。


(3)「崇徳」と「後白河」の生母は待賢門院(西行が恋し・慕ったという噂のある女性)。
「近衛」の母は美福門院。
待賢門院(藤原璋子)は「白河」の養女として育てられ、お手が付いてしまい、17歳のときに、「白河」は15歳だった孫の鳥羽天皇中宮にさせてしまう。(1118年)。
翌19年に「崇徳」が生まれるが実は、「白河」の子であった。

(4)「白河」は20歳で鳥羽を譲位させて、僅か4歳の「崇徳」を即位させる。
ところが、その6年後、「白河」は崩御し、「鳥羽法皇」が権力を握る。
しかも寵愛は待賢門院から美福門院(藤原得子)に移り、それぞれの親たちにグループが結成され、対立が深まる中、「鳥羽」は1142年、23歳の「崇徳」を譲位させて、たった2歳の・美福門院の生んだ「近衛」を即位させる。


(5)ところが、1155年、「近衛」が17歳で早世。美福門院には他に子がいないので、崇徳の長子(16歳)の即位を阻止し、代わりに、崇徳の弟・18歳の後白河を即位させる。
当時の後白河は自分が天皇になれるとは夢にも思わず、いまでいえば「カラオケ」と言ってよいか、今様に狂っていた。美福門院側にすれば、「政治に興味のない彼なら操れる」と考えた(しかし当てが外れて、後白河はその後の乱世をしたたかに生き抜くことになる)。

(6)直系である自分の息子の即位を阻まれた「崇徳」の不満・悩みは収まらず・・・・
1156年に鳥羽院崩御
これがきっかけとなって、崇徳・後白河の双方を支える勢力が激突し、ついに「保元の乱」。結果、崇徳側が破れて、「崇徳」は讃岐(いまの香川県)に配流される。
牢屋のような場所に幽閉されて、8年後、激しい恨みを抱いたまま讃岐にて崩御、怨霊となって京都の人たちを恐れさせたといいます。


5.以上、「代表的な一大乱世」「自由狼藉世界」のさわりを紹介しました。
民の苦しみなど一切考えず、お構いなく、権力争いに明け暮れる人たち。
マックス・ウェーバーの言う通り「政治の本質は権力である」とすれば、いまも昔もあまり変わらないかもしれない。

その渦中にあって、西行や定家の生き方は「芸術至上主義」といえば恰好いいが、「逃避だ」と批判できるかもしれない。
しかし、「わが事にあらず」として「歌」に生きようとした心もよく理解できるように思います。
いまのご時世に時にうんざりして、(定家や西行のような身分とは縁がない)「一庶民」であっても、「わがことにあらず(勝手に権力争いにうつつを抜かしてくれ、勝手に嘘を並べたててくれ)」と言いたくなる気持ちもあります。
自分では「歌」は作れませんが、『西行花伝』を読んで西行の歌を読んでいるときの方がはるかに豊かな時間を感じる。

例えば、
<風になびく、富士の煙の空に消えて、行方も知らぬ我が思いかな>


「一市民」としての義務は、そういうわけにもいかないのでしょうが・・・・。