1.今年はGW連休の遅く、田舎に来たので、先週はほぼ当地に滞在し、畑にも何度か行きました。
まだ寒く、日中も薪ストーブを焚く日が多く、八ヶ岳に雪が残っています。
浮世を離れて、散歩をしても殆ど人間には会わず、挨拶するのは鹿ぐらい。
もっともこの時期は田や畑の準備で農家がいちばん忙しい時期で、とても散歩している暇などないでしょう。
畑にはウグイスや雉が鳴き、野生のふきが一杯育っています。家人がとってきて、煮て夕食に供してくれましたが、香りよくおいしかったです。
コメントを頂いた岡村さんは奥様が茅野出身だそうで、「懐かしい」と書いておられますね。
2. 今回は、我善坊さん(和歌のこと)、岡村さん(女性会)から長文のコメントを頂いたので、感謝とともにフォローしたいと思います。
その前に、日本における女性の役割について、フェイスブックのMasuiさんからコメントを頂きました。一部を以下に引用します。
「日本民族の歴史の中で、平安時代から鎌倉時代にかけての女性の活躍は大変大きな役割を果たしています。現代で、家庭での主権や役割はすべて女性が支配しているケースが大半です。ドイツに留学した折にある家庭に下宿しましたが、そこの家庭の財布はご主人が握り日本とは全く異なっていました。外ではレディーファーストでしたが、内情は男性社会でした。」
ご指摘に同感です。
補足すれば、日本で男が威張りだしたのは、江戸の武家社会と(語弊があるかもしれませんが)明治の薩長文化以来ではないでしょうか。
福沢諭吉は、男女同権と一夫一婦制を主張し、藩閥政府の高官による妻妾同居などの横暴な人権無視を鋭く攻撃しました。
ちなみに彼は明治人には珍しく、もちろん妾ももたず、9人の子供をもうけ、生涯妻以外の女性とは付き合わなかったといわれます。
某財務次官は、明治に生まれればよかった、と思っているかもしれません。
3.次に、岡村さんの「女性会」についてのコメントです。
「僕の人生の大半は女性会と一緒でした。女性会の成り立ちは女性の地位向上を目指し、女性の社会参加、女性と政治(女性を政治の世界に送る)、女性と教育を上げていました。
(略)女性会組織も衰退して行くのかなぁとこの頃感じます。次の世代にバトンタッチして行くのが如何に難しいか、残念です」
これを読んで私事ながらロンドンの金融業界で働く娘のことを思い出しました。
某金融機関は3千人強の従業員がいて女性はその3分の1でしょうか。
日本ほどではないにせよ、女性の地位向上は大きな課題だそうで、この問題に取り組む、女性社員による自主的な「会」があるそうです。たまたま彼女は推されてその「ヘッド」をボランティアでやらされています。
「会長」は2人いて、もう1人は社内弁護士。
「会」の活動を活性化するには何がいいか2人で話合って、女性だけの活動はやはり限界がある、この「会」に男性も入ってもらう必要があるのではないか、
――ということで幹部社員を初め趣旨に賛同する男性社員にも声を掛けて、徐々に参加してくれて、活性化につながっている・・・・
3月に娘のところに滞在したときに、そんな話を聞きました。
もちろん日本の「女性会」とは事情も文化も違うでしょうから、お役に立つとも思えませんが、いちおう情報としてお伝えします。
それにしても、「女性の地位向上、社会参加」、大事なことですね。
4.最後に、我善坊さんの「和歌」について
―――「(『日本の詩歌』で)大岡の言いたかったのは、「31文字の和歌は如何にも短く、叙景が中心とならざるを得ない。恋情くらいで、その他の思想、信仰、社会、政治から失意、左遷など一切は、叙景に託して比喩的に触れることくらいしか敵わなかった」という点にあったのではないか。
さらに言えば、「和歌の「和」は共感能力を高く評価することであり、それはやがて「共感の強要」にまで及び、独立した近代的個人の誕生を、ほど遠いものにしてしまった」という点が大岡の真意であったように、私は読みました」
とくに異論はありませんが、少し私見を述べれば以下の通りです。
(1)「和歌」は短い詩形であることはその通りにしても、様々な工夫が凝らされてきたことも事実。
(2)例えば、a(詞書ことばがき).b.(本歌取り)c.(掛け言葉)d.(歌枕)e(返し)・・・などなど。
(3) 詞書についてはもちろん全ての歌についている訳ではないが、「とても大事」というのが、私がいま「古今集」の講義を聞いている田中先生(もと名大教授)の意見です。
同氏は、「源氏物語」には800以上の歌が出てくるが、極論をいえば、歌が主であって本文はそれを説明するための長い「詞書」と言ってもよい。その点で「伊勢物語」などの伝統をふまえている。
(4) 「本歌取り」と「掛け言葉」の重要性については言うまでもありません。
実例をあげる紙数はありませんが、田中先生は、「古今集」のキーワードを一言でいうと「掛け言葉」、これに尽きる、としつこく例をあげて語ります。
(5) 最後に「返し」があります。もちろんこれも「詞書」同様、歌の全てにあてはまるものではない。しかし、歌は往々にしてある人に宛てた思いの表明であり、それには必ず返事がある。「源氏物語」に出てくる歌はこの形が多い。そして、それは必ずしも「共感の強要」ではなく、自己主張になっている場合もある。
(6)何れにせよ、以上のような様々なレトリック上の工夫を凝らすことによって、31文字の短い詩形ながら、多様な感情の表現が可能になった、と言えるのではないでしょうか。
(7)最後に、漢文について補足すると、例えば定家が漢文で日記「明月記」を書いたように、平安末期であっても漢文は公文書や男性の文章の主であった。
その点で、当時の日本人は、漢文と「やまとことば」の2つを駆使する「バイリンガル」と呼んでもいいかもしれない。
その点では今の日本人よりはるかに高度の言語能力を要求されていたかもしれない
(今、日々の日記を英語で書いたり、正式のビジネス文書を英語で書ける人がどれだけ居るでしょうか?)
しかし、我々が英語で文章を書くことの苦労を思えば、当時であっても漢文で思想や意思を伝えることは、多くの日本人にとってかなり苦労があったのではないか。
その点で、仮名文字の発明がいかに重要であったか、それによって、日本人は自らの論理や思いを自由に文章化することが可能になっていったのではないか・・・・・
こんな風にも考えているのですが・・・・・