三好達治『詩を読む人のために』と「きれいな日本語」

新型コロナウィルスが日本でも拡散しているようです。

1.(1)こういう状況では、京都もおそらく観光客激減でしょう。

f:id:ksen:20200126120956j:plain 私も今月、大坂・京都に行くつもりでしたが、中止しました。風邪の症状があり、81歳の老人が咳やくしゃみが取れないままで電車に乗るのは、気にする人が多いだろうと判断しました。

(2) 対応は国によって多少違うのでしょうか、英国や欧州は神経過敏になっているようです。

 娘の亭主は「やや過剰反応ではないか」とメールをくれましたが、小学校1年生の孫息子はロンドン郊外の私立校から2週間の自宅待機を指示されたそうです。

 学校の措置は、中国だけでなく日本を含む一部のアジア諸国に最近の滞在歴がある生徒が対象となる。孫は昨年12月に2週間ほど一時帰国しました。昨年末に英国に帰国している孫息子まで対象にするのは確かに「過剰反応」ではないかと思いますが、メールには「それとなく ”最近、日本へ行った?” と聞いてくる神経質そうな保護者もちらほらいたりで、時間の問題かなとは思ってました」とあります。

(3)また、以下追加のメールがありました。

・「ミラノからロンドンへ戻った日本人の友人情報によると、ミラノの空港で検温され、ヒースロー空港でも貼り紙があり冷や冷やしたらしいです。もし(普通の風邪でも) 熱や咳や喉の腫れなどの症状がたまたまあったら疑われ、隔離されることもありうるのではないか」。

・「幸いこれまでのところ自分の周りは握手やキスをしてくれてますが、今後、こちらから遠慮しようかと思っています」。

(4) 以上、かなり神経質になっているようです。

 こういう状況が続くと、欧州から日本に来る観光客にも影響するかもしれません。

 何れにせよ、早く収まってほしいものです。

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2. ところで前回は、カルタ会などについて報告しました。フェイスブックでいろいろ

コメントを頂きました。

(1) 百人一首の話から、「耳で覚える」文化の大切さに触れたところ、沢崎さんから「暗誦の文化が残ってほしいと、心から同意する」と賛成してくれました。

 藤村の「千曲川旅情の歌―小諸なる古城のほとり~」を今でも暗唱できると書いたところ、飯島さんから「藤村の「初恋」を覚えたのは純情な中学生の頃。「まだあげそめし前髪の、林檎のもとに見えしとき~」・・・」と書いてくださいました。

 そういえば、私も詩というものを始めて声に出して覚えたのは「初恋」だったかもしれません。

(2) ともに定型詩ですが、前者は五七調、後者は七五調です。和歌・俳句や歌舞伎の口

上や演歌に至るまで、日本人は昔から五と七の調べが好きですね。

 何故かは分かりませんが、やはり、言葉は耳で覚えることからくるのでしょう。以下のように説明する俳人もいます(長谷川櫂)。

――「日本語の母胎である大和言葉は2音の単語と3音の単語を基本にした言葉である。はな(花)つき(月)いのち(命)こころ(心)。ひ(火)て(手)ゆ(湯)などの1音の単語も昔は、ひィ、てェ、ゆゥと2音で発音した。

 この2音と3音のもっとも単純な組み合わせの中から、まず和歌が生まれた・・・・」

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(3) また、「千曲川旅情の歌」を例にとって詩人の三好達治は著書の中で、詩の優れた音韻効果を指摘しています。

・例えば歌い出しの2行、「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」には、母音Oの音がたいへん多い。1行目には8個もある。2行目にはU音が多く出てくる。

「母音のOUと子音のKとの巧みな組合せの効果が、この詩の冒頭2行を支配している、その快適な響き、その調子のよさは、殆ど偶然と思えるくらい、上乗の出来栄えだ」。

・例えば第3節、「暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛~」の2行であれば、「母音のAが9回くりかえされる」

「殊に、「浅間」という固有名詞が、その母音を三つ重ねているのはたいへん特徴的で、それが「佐久」に呼応し、末尾の「草笛」にまた呼応する・・・・」

と絶賛しています。

  言葉は耳で覚える、そしてそれを諳(そら)んじる。そこから美しい日本語が心に残る・・・・

(4) もちろん、暗誦は日本語だけではないので、英語もフランス語もそうなのでしょう。

 文学者の吉田健一はいうまでもなく吉田茂の長男で、外交官の父とともにパリ・ロンドンで幼年時代を過ごし、その後ケンブリッジに留学した。

  会話の中に、フランス語ならボードレールヴァレリー、英語ならシェイクスピア、イエィツなどの詩の一節がごく自然に出てきたそうです。

  そのことについて英文学者の福原麟太郎が回想しています。あるとき、「ぼくなど詩の一行だってすらすら出てこない」と言い出したら、いきなり「覚えりゃいいじゃないか、覚えられない位なら英文学の教師をやめりゃ良いじゃないか」と、もう一太刀あびせられた。吉田さんという人はそういう激しさも持っていた」と書いています。

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3. Masuiさんからは、やはり日本語についてコメントを頂きました。

「日本語はきれいですね。ドイツにいたころドイツ人からも度々言われました。国にとって最も大切なものは国語だと思います。どんなに国の力がなくなっても、国語を守っていればその国は滅びないです。国語はその国のすべてを濃縮したもので、最も大切に守らなければなりません。挨拶は人間社会で最も簡単にして最も大切な潤滑油です。最近の日本人は挨拶が出来なくなっているのではないでしょうか?50年余り前に独逸で暮らしていた頃、ドイツ人は少数でいる人には必ず挨拶をしていました。郵便屋さんや知らない人でも。」

 それにしても、最近の日本語の質は低下していますね。政治家の発言が典型的ですが、一国の首相が「国権の最高機関」国会でヤジを飛ばすというのは下品で情けないです。

 せめてたまには、三好達治の『詩を読む人のために』でも拡げて、日本語はこんなにきれいな言葉なんだと知る感性を持ち合わせてほしいのですが、無理でしょうね。

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4. 最後になりますが、岡村さんは、Masuiさんの「挨拶」についてのコメントを受け

て、「フランスやドイツでは早朝リュックを担いでホテルを出ると行き交う人が言葉をかけてくれました。自分の顔が自然に綻びるのがわかります」と書いて頂きました 。

 京都という街は「社会空間である」という認識について、さはさりながら京都も東京資本と観光客が増えて変わってきているという指摘もありました。

 これにMasuiさんがさらに反応してくださり、同氏のコメントは「岡村さんはいろいろと経験が豊かで、豊富な感性豊富で、人間味の深さを感じます」。

 その通りだと思いますし、こういう具合にコメントを頂く方同士(お互いに見ず知らずにも拘わらず)が言葉の交流をするのは、私にはとても嬉しい出来事です。