「広島原爆の日」と「沖縄慰霊の日」

1. 前回のブログで、海外旅行者の増加がとくにヴェネチアなど欧州の受け入れ都市で大問題になっているというタイム誌の記事を紹介しました。4人の方からフェイスブック上コメントを頂き、有難うございました。
「8月15日も近づき戦争の悲惨を反省する機会も多くなっていますが、この世界的な観光旅行の進展が互いの国の理解を深め戦争回避に少しでもつながることを期待します」というコメント(Masuiさん)を読み、確かにそうだなと共感しました。

ちょうど73回目の「広島原爆の日」を伝える報道に、
「広島には毎年、多くの外国人観光客が訪れている。8月6日も平和記念公園などで多くの外国人の姿があった」という記事がありました(朝日デジタル版)。
記事は、
―― 平和記念公園にかかる本川橋近くに置かれた大きな世界地図の下に、英語で「どこから来ましたか」の文字。地図の様々な場所に赤、黄、緑のシールが並ぶ。地図の右下にシールを貼ったのは、友人とチリから訪れたジョナサン・ガルビゾさん(27)。「もう戦争は嫌だ、我々はみな家族なんだ」と話した。―――
と続きます。
はるばるチリから広島を訪問したのだと思うと、感慨深いものがあります。
観光旅行といってもいろいろな旅があり、いろんな経験なのですね。


2. 「戦争は嫌だ」と言うチリのジョナサンさんは、オバマ前大統領も訪れた「広島平和記念資料館」を見ての感想でしょう。

かって、チェ・ゲバラワイツゼッカーも(エドワード・ケネディも)訪れました。
(1)チェ・ゲバラについては、この7月に刊行され、茅野市図書館から借りて読み終えたばかりの、『原爆、広島を復興させた人びと』(石井光太集英社)から知りました。といっても著者も『ゲバラのHIROSHIMA』(佐藤美由紀双葉社、2017年)という本からの引用です。
――資料館完成は1955年。
1959年、フィデル・カストロとともにキューバ革命をなしとげたゲバラは、7月キューバ通商使節団の代表として来日。
広島行きは当初の旅程に入っていなかったが、ゲバラ自身の希望で、大阪滞在の最中、副団長と大使の2人だけを連れて突然訪問。
長岡省吾初代館長の案内で見て回り、見学時間は、平均の倍にあたる1時間に及んだ。・・・資料館を出てから、原爆病院へ赴いて、原爆症で苦しむ人々を見舞った。・・・ゲバラはそんな患者たちを前にして涙を流し、「頑張って生きてください」と声をかけて回った。
・・・30歳だったゲバラの、妻アレイダに宛てた手紙には、
「今日はヒロシマから送ります。(略)
平和のために断固として闘うには、ここを訪れるのがよいと思います。・・・」――

(2) ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の広島訪問は、1995年8月8日。
その10年前、ドイツの敗戦40年にあたって演説し、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と語った人です。
彼も資料館も訪れ、「広島を訪問した者は、生涯にわたって平和の大切さを、世界に語り続けるだろう」と記帳しました。

(3) そういえば、毎月慶応義塾の三田キャンパスで集まる「福沢諭吉」ゼミの幹事をしてくれる60代のインテリ女性は、今年初め夫妻でポーランドに行った、アウシュヴィッツを訪れるのが主目的だったと話していました。
いろいろなツーリズムがあり、それぞれが思いを抱いて帰ってくるのでしょう。
「(旅が)お互いの国の理解を深め戦争回避に少しでもつながることを期待します。」というMasuiさんの「期待」は大事だなとつくづく思いました。


3. ところで私はといえば、今年もまた8月6日を茅野市で迎え、朝早くから「第23回平和祈念式」に出席しました。とりわけ暑い日で、この暑い中で少し挨拶が多く・長かった」とは一緒に出掛けた家人の感想です。
他方で、昨年、広島市の平和記念式典に派遣された中学生7人が松井広島市長のメッセージを代読する試みはよかったと思います。
7人が交代で「・・・被爆者の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という核兵器廃絶を願う切なる思いを世界の人々に広げ、次の世代にも受け渡していかなければなりません」などと読み上げました。



中学生の姿を眺めながら、新聞で読んだ沖縄の中学3年生相良倫子さんのことも思い出しました。

相良さんは6月23日、沖縄戦で亡くなった20万人超をしのぶ「慰霊の日」に自作の平和の詩「生きる」を朗読しました。全文で百行以上ある長い詩です。
以下に、一部を紹介して今回の終わりにします。


―――私の生きるこの島は、何と美しい島だろう。
   青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
   山羊のいななき、小川のせせらぎ、畑に続く小道、
   萌え出づる山の緑、優しい三線の響き、照りつける太陽の光。 
   私はなんと美しい島に、生まれ育ったのだろう。
    (略)
   七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日。
    ・・・・・・・・・
   火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
   燃えつくされた民家、火薬の匂い。
   着弾に揺れる大地、血に染まった海。
   魑魅魍魎(ちみもうりょう)の如く、姿を変えた人々。    
   阿鼻叫喚(あびきょうかん)の壮絶な戦いの記憶。

   みんな、生きていたのだ。私と何も変わらない、
   懸命に生きる命だったのだ。
   
   摩文仁(まぶに)の丘。眼下に広がる穏やかな海。
   悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
   私は手を強く握り、誓う。
   奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。
   私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、
   絶対に許さないことを。
    (略)

   あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。
   あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。
   そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を
   一緒に生きているのだ。
    ・・・・・・・・・・
   私は、今を生きている。みんなと一緒に。
   そして、これからも生きていく。
   一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。
     (略)
   摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。
   過去と現在、未来の共鳴。
   鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
   命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。――

東京新聞の「読者欄」に「詩でこんなに涙を流したことがあっただろうか。・・・私の魂を震わせた」という61歳の女性の投稿が載りました。