沖縄や広島やアウシュヴィッツを旅するということ

1. まず初めに、2011年5月23日付「「胸中の公平な観察者(アダム・スミス)」とアメリ憲法」と題するブログに7年後の18年8月15日に「勉強になりました」とコメントを頂いたinoue3さんにお礼を申し上げます。こんな昔に書いた文章を今だに読んでくれる人がいるということ自体、不思議に思えるのですが、「アメリカの憲法」については次回にも取り上げたいと思います。

2.先週はお盆休みで、当地も人と車で賑わいました。JA経営のスーパーマーケットに行ってもレジは長蛇の列です。
久しぶりに田舎のおじいちゃん・おばあちゃんに会った若者も多かったでしょう。15日には、戦争の話をお年寄りから聞く機会もあったかもしれません。
私どもの場合は、長女夫婦が1週間の夏休みで来るはずだったのですが、老いた猫の病気が重くなり、看病で東京に残らざるを得なくなりました。
そんな訳で、手伝いがいなくなり、老夫婦二人で畑のじゃがいも掘りをしました。1回ではとても取り切れません。酷暑とはいえ、今年も豊作でした。
じゃがいもは、手をほとんどかけなくても立派に育つ、貴重な食べ物です。植え付けの時は畝づくり、鹿除けネットの設置や肥料など、結構手間がかかりますが、あとはたまに草刈りをする程度で、収穫は疲れますが楽しい作業です。
ということで、混雑するこの時期、スーパーでの買い物は敬遠して、我が家の食卓は、じゃがいもの他、友人が作っているトマト、枝豆、ズッキーニ、とうもろこしなど、もっぱら地元の素人野菜が並びます。


3.長男夫婦が2泊してくれました。こちらはあまり長い休暇は取れないようです。
ちょうど15日にも居ましたが、1昨年は、この時期二人で広島の平和記念公園に行ってきた話を聞きました。オバマ前大統領が5月に訪れた年です。


そういえば、フェイスブックの岡村さんが、沖縄の中学生が「慰霊の日」に朗読した詩を読んで、1977年の33回忌で沖縄を訪れたとき、「飛行機から見た海が、まさに青く輝いていたことを思いだした」というコメントを頂きました。
その旅で、同氏が京都女性会のメンバーを連れて、摩文仁の丘と宣布湾市にある「京都の塔」に行き、花束を捧げたとき、メンバー全員が涙を流していたことも思い出したそうです。
私も糸満市摩文仁の丘を含む平和祈念公園や資料館は訪れましたが、宣布湾市の「京都の塔」は知りませんでした。検索すると以下の説明があります。

「昭和39年4月29日、京都府沖縄戦没者慰霊塔奉賛会が京都府出身沖縄戦没者2,536柱の御霊の冥福と世界の恒久平和を祈念して、玉砕の地、宜野湾市嘉数の丘に「京都の塔」を建立した。石材は、京都市左京区の鞍馬から産出する「鞍馬石」を使用している。」

観光旅行と言っても、アウシュヴィッツ収容所跡を訪れるなどいろいろな旅があることは前回も触れました。
こういう場所を訪れるのは決して楽しい経験ではないでしょう。しかしそれでも、内外から旅する人がいることに、何となく救われるような気持ちになります。

4.前回、紹介した『原爆、広島を復興させた人々』(木村光太、2017年)というドキュメンタリーは、原爆で壊滅した同市の復興に努力をした人の中から、
長岡省吾、浜井信三、丹下健三高橋昭博という4人の事績を追いかけたものです。

長岡は直後から市内を歩き回り、爆心地の特定や燃えた石や遺品など貴重な資料の保存に努め、1955年に開館した平和記念資料館の初代館長となった。

浜井は原爆投下時は市の配給課長として救助活動に奔走した。戦後公選による初の市長として、市の復興に力を尽くし、平和記念公園の設置や原爆ドームの保存に尽力した。

丹下は、広島で高校時代を過ごしたこともあって、平和記念公園の設計コンペに応募して1等となり、彼の設計になる公園が完成した。そこは、「慰霊と祈念するための施設であると同時に、平和を創出する場をコンセプトに、都市全体の構図の中で建物がデザインされている」と言われます。

高橋は被爆者の語り部原水爆禁止運動の活動家として知られ、7代目の資料館館長でもあり原爆ドームの保存・修理費用の募金活動にも尽力した。


5.本書を読み進めるには相当の勇気が要ります。
とくに第4章「悲劇を継ぐ」は、こうして完成した「資料館」に「被爆者の苦しみや痛みがつたわってくる資料」がどのようにして集められたかを記述します。
例えば、「長岡が家族から受け取り、今も常設展示のコーナーに置かれている被爆資料に「三位一体の遺品」がある。原爆で死亡した三人の中学生が被爆時に身に着けていた衣服が一つのマネキンに着せられて飾られた品である。ゲートル、帽子とベルト、学生服だ。
そして、「三人の被爆の経緯は以下の通りだ・・・・」から続く文章はあまりに悲惨で、私のような(6歳のとき広島にいた)弱虫はとても読む勇気がありません。


彼らは爆心地から900m.の場所で建物疎開の作業をしていて被爆した。
同じく犠牲になった中学生の名前入りの弁当箱を寄贈した、彼の甥(当時生後11か月で被爆し、左目を失明した元広島大教授)はこう語ります。
「・・・(戦後もずっと)原爆という言葉を耳にするだけで、震えが止まりませんでした。原爆関係のポスターが貼られていれば逃げるように遠回りし、学校で「原爆の子」の上映会に行ったときは最初から最後まで下を向いて見ないようにしていた。・・・もちろん、資料館に足を運んだことはありませんでした。怖くて近づくこともできなかったんです」。


6.それでも、一人でも多くの人が観光旅行のついでもいい、怖さや辛さを恐れず、沖縄や広島を訪れて資料館に入って悲惨な思い出に接してくれる・・・そういう人たちを考えるだけで感動してしまいます、僭越ながら、有難うと申し上げたい気持ちです。

今年の長崎原爆の日、8月9日には国連のグテレス事務総長(元ポルトガル首相)が式典に参列し、挨拶をし、資料館も訪れました。
挨拶では、
「(世の終末を暗示したヨハネ)黙示禄の向こう側から、被爆者は人類という家族すべてに代わって声をあげています(・・・the Hibakusha have raised their voices on behalf of the entire human family )。私たちは耳を傾けなければいけません」
と語りかけました。


田上長崎市長は平和宣言の中で、こう訴えました。
「世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国と国会に条約の署名と批准を求めてください。
(日本では)いま300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます」。