「戦後78年、命あればこそ」

1.当地もお盆休みは人出が増えました。

長男夫婦も田舎家に2泊してくれました。短い夏季休暇です。この機会に一緒に外出もし、少し贅沢な時間を楽しみました。

  1. いつもの市営の温泉ではなく、蓼科温泉滝の湯にあるホテルの日帰り入浴に行きました。台風7号がもたらす雨に濡れながら、渓流を眺める露天風呂につかりました。

外食は夜はお寿司、昼は蕎麦。寿司「なが田」ではまだ新子(小肌の稚魚)を握ってくれました。

蕎麦屋「黙坊」のメニューはもりと蕎麦がきしかありませんが、どちらも絶品です。

蕎麦のあと通りの向い側にある「銀のポスト」で珈琲をと思って寄ったのですが、あいにく8月15日の終戦の日はお休みで、諦めました。旧郵便局を改装した喫茶店です。

  1. 15日の午後に彼らは帰り、また静かな時間に戻りました。

たまった新聞やメールを眺めました。13日の毎日新聞は、「戦後78年、命あればこそ」と題して、91歳の最高齢から14歳の中学生までの5人の、先の戦争を思い、いま平和に生きる大切さを考える投書が載っています。

4.読書会のMさんから仲間あてのメールには、「今日は 8月15日なので 東京新聞には平和の俳句が載っていました。17文字に託す平和への思いそれぞれ胸に沁みます」とありました。

 東京新聞は、戦後70年になる8年前、「平和の俳句」と題する投句を一般に呼びかけました。今年も応募6748句の中から30首が選ばれました。

 例えば、「人類の滅びぬための原爆忌」(81歳の男性)。

  1. このメールに、Eさんから返事がありました。

「手近にあった「ホトトギス新歳時記」で、終戦や敗戦を詠んだ句にはどんなものがあるだろうと索引を調べてみて驚いたのですが、この伝統俳句系の「ホトトギス新歳時記」では、終戦敗戦の日を季語(季題)として立項していない様なのです」とあり、私も驚きました。

 

私の手許の古い「山本健吉編最新俳句歳時記」(文藝春秋、昭和46年)には「原爆忌」も「敗戦忌」も載っています。前者は夏の、後者は秋の季語とされます。

 流派の違いに加えて、時代の流れも大きいのでしょう。生存する被爆者の平均年齢は85歳を超えたそうです。原爆も戦争も実体験としては知らない若い世代が圧倒的多数になりました。何れ、追悼し追憶する機会も消えていくのでしょうか。「死者とともに生きる」ことの大切さを忘れたくないと思うのですが。

  1. そういえば、日経俳壇の選者を25年続けた黒田杏子(ももこ)さんがこの3月、

84歳で亡くなりました。

黒田さんは毎年8月には必ず、原爆や戦争の日を詠んだ句を選んでいました。別の選者の選句で見たことはありません。

私も過去のブログで、たびたび紹介しました。

例えば、少し古いですが2009年には一席となった高橋冨久子さんの、

「命とは一握の灰原爆忌」。

これには黒田さんの次のような解説がありました。
「旧広島県 立第一高等女学校1年13歳の作者は勤労動員を体調不良で欠席。
 出席の生徒223名全員が被爆死した。
 原爆の句を作ることは即ち祈ることであると記す作者である」。

この方にはこういう句もあります。「友らひとりも棺なし爆忌くる」。

やはり「季語」として残して欲しいです。