- 本日はこれから妻と二人、レンタカーを返して電車で東京に戻ります。今年の夏も田舎で緑に包まれて暮らしました。
その間、当地もすっかり秋めきました。蕎麦の花が盛りで、稲も色づきました。今年の夏は当地も暑く雨が少なかったので、生育も刈り入れも早そうです。
夏の終わりの里山の眺めは、いつも美しい日本の風景として心に残ります。
- 約2か月、人との出会いも良い思い出でしたが、一人で過ごした時間も多かったで
す。午前中から、庭に椅子を出して緑陰の読書です。
先々週の娘と孫二人の滞在中は自分の時間を十分とれなかったので、彼らが帰国してからは、たまった新聞や読みかけの本を拡げました。
- 紙の新聞といえば、東京と違うのは夕刊がありません。
(1)しかしこんな山奥にまで朝早く配達してくれて、起きるとポストに入っていて、感謝することの一つです。(若者ならまずスマホでしょうが)一日分の新聞を広げるのは朝の楽しみです。
何れこういうサービスも無くなるでしょうが。
(2)報道記事より、特集やコラムや投書欄などが好みです。
例えば、8月15日(火)の「毎日歌壇」には、林田さんという女性のこんな短歌が一席に選ばれました。
―「七十八年経ちましたね」父の遺影に「お父さん、もう傘寿です」―
選者の「評」は以下の通り ―「父親は敗戦の年に世を去ったのだろうか。であれば作者は2歳の時。父親に語りかける文体を生かした歌は深く心に響く。
- 私であれば、敗戦の年は6歳、しかしこの年に父親を亡くしたのは同じです。
(1)その私は、素人雑誌「あとらす」の今年の夏の号に、恥ずかしながら、「「南洋」・「戦争」そして父」と題して、父親のことを載せました。
(2)先の戦争が始まる前から日本は、いまの東南アジア地方を「南洋」と呼び、その殆どは英仏蘭の植民地でしたが、地理的にも近く、資源も豊富なこれらの国々と経済的な結び付きを強めたいと考えていました。
(3)その希望は、結局平和的な交渉では解決できずに、英米への宣戦布告とともに日本が一時軍事占領することとなり、その後の敗戦で敗退しました。
(4)父は当時30代後半、某官庁の課長として、そういった交渉団のメンバーの一人に加わったのですが、欧州での戦争が激化する中で交渉は成功せず、日本自身が戦争を始める悲劇になりました。
(5)そんな、いわば果たせなかった平和外交の歴史の一齣について、父の著書や妻に送った手紙を紹介しつつ雑文を書きました。
- 関係ない方には、面白い内容では全くないのですが、
(1)42歳で広島で死去した父の、一時期の活動を書き残しておきたいと長年考えていました。
(2)子供たちにも、戦争に向かう時局のなかで苦労した祖父がいたことを知って欲しいと思い、孫を連れて英国からやってきた娘にも渡しました。
(3)彼女は、何とか帰りの機内で読んでくれました。無事に自宅に帰り着いたとメールが届き、
「飛行機の中で、お陰様で「あとらす」も読めました。お祖父ちゃまの話は知らないことばかりで、大変興味深く読みました。共有いただき有難うございます」と書いてくれました。
(4)とにかく読んでくれただけでも有難いことだと感謝し、今年の夏の思い出の一つになりました。