ブログ名はまだ「京都活動日記」です

1.先週の初めの2月4日から2泊3日で、家人と京都に行きました。

(1)金閣寺を眺めたり、「冬の特別公開」の中から建仁寺の両足院での等伯・契沖の絵を見たり、従妹夫婦や友人との夕食を楽しんだりしました。

久しぶりに宇治まで足を伸ばし、源氏物語ミュージアムから宇治上神社を経て平等院まで歩きました。のんびりした散策路です。 

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(2)3月の気候だそうで、歩くのも気持ちよく、助かりました。

冬の最中でも、観光客は昔より多く目につきます。それでも電車も空いているし、せわしなく歩いている人も少なく、家々のたたづまいもどこか余裕があり、東京よりゆったりした気分になれます。

 

(3)従妹は、上京区に住んでいますが、同区の文化推進活動の会長を引き受けさせられたとのこと。

何をするのか知りませんが、上京区には大企業は1つもないが、京都御所を中心にお茶の本家、お寺や北野天満宮、大学、西陣上七軒の花街も含まれます。 

 

 「千家十職」という言葉を初めて知りました。

「茶碗師(楽家)」「焼物師(永楽家)」「釜師(大西家)」など・・・・

三千家(表千家裏千家武者小路千家)に出入りし、歴代の御家元御好道具や千家の流れを汲む茶道具を代々にわたり制作する十の『職家』を表す尊称」とのこと。

「「十家」の特徴として、茶道具の基本となる利休好みの形や色を代々受け継ぎ、三千家御家元の御好物道具の制作を中心にその時代の各家当主による創意工夫を施した茶道具を制作」するのだそうです。 

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従妹は「そういう人たちが住んでいるところ、人間国宝も大勢いる」と言っていました。

無風流な私には縁のない世界ですが、さすが京都ではあります。 

(4)いつも行く気楽な割烹でも夕食。常連さんに会い、某氏からは、自宅が京都の代表的な町家の指定を得て、雛人形なども見せて「特別公開」するので準備に忙しいという話を聞き、これまた京都だなあと感心。

 

1年365日、朝7時から開けている「イノダコーヒ」でも2日連続して軽い朝食をとり、「円卓」に毎日座る柳居子さんや祇園の町内会会長を3年も続けている岡村さんと久しぶりにお喋りもしました。

このお二人、喋り方や立ち居振る舞いなどいかにも京都人だと思います。

外国人の観光客が増えて、町は変わってきているという話も聞きました。

祇園の「夜の街」の文化も変わる。

他方で、柳居子さんは本職は散髪屋さんですが、外国人が飛び込みで入ってくる、英語で会話を交わして「面白い散髪屋が京都に居る」と口コミで伝わったりして新しいガイジンさんが入ってくる、という話を聞きました。

 

祇園に観光客が群れてマナーを守らない、といった悩みや苦情もありますが、接客の仕事を通じて異国の人と触れ合うのは、お互いにとって良い経験だと思います。

散髪の仕事を「快感行為」と称する柳居子さんですが、明治以前は代々「刀」を扱う仕事師だったのが、明治に入って商売替えをしたそうです。

当時、散髪屋はハイカラな商売でもあり、「刃物」の扱いにも慣れていたのでうまく転換できたのではないでしょうか。 

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 2.そんな京都での短い滞在を楽しんで、帰京したら冬の寒さが戻り、土曜日(9日)は都心部でも積雪5センチの予報が出ました。(結果はさほど降らず)。

その前に旅をしたのはラッキーでした。

 

 

(1)東京で、この前降ったのはいつだったかなと思い、過去のブログを検索したところ、

2016年の2月に2回、大雪に見舞われました。

この時は我が家も相当つもり、雪かきに追われました。

こんな風に過去の出来事をブログで検索できるのは、なかなか便利です。 

 

(2)私のブログは、「はてな」という会社のサービスを利用していますが、

先週の日曜日(3日)、京都行きの前日、いつものようにアップしようとしたら、「新しいサービスに移行したので手続きが要る」という表示が出て、慌てました。

 

後期高齢者は、手続きの移行を自分でやるのはお手上げ。

長女の連れ合いが詳しいので、至急SOSを発信。近くに住んでいることもあって夕方駆け付けてくれて、すぐに移行OKとなり、この日のブログアップも無事に成功。

過去のブログも全て移行できて、フェイスブックとの接続も以前通り可能になりました。 

 

(3)さすがに若い力は素晴らしい。感謝・感謝です。

新しいサービスへ移行した理由は分かりません。

デザインが昔と変わってしまい、その点が保守的な老人にはやや不満ですが、その他は従前と変わらず、過去のサイトも残っているので、前述のように、2014年2月我が家の大雪の写真を載せたサイトもチェックすることが出来ました。

 

 (4)何れにせよ、ブログ作成が、「はてな」から無料で提供されるということは素晴らしいことです。f:id:ksen:20190205091000j:plain

ブログを開設したのはもう15年も昔、私がまだ京都の大学に勤務していたころで、若者が作ってくれました。私自身は技術的なことは一切分かりません。

ブログの題名も、若者が決めてくれました。

いまは大学も退職して東京に引き上げたので、「京都活動日記」という題名も看板に偽りありですが、過去のサイトをすぐに検索できるようにするには、「昔の名前で出ていた」方がよいので、そのままにしました。

 

 (5)作成したときは、学生も見てくれる前提で、授業の中で参照したりしました。

いまはその必要もなくなりました。

ただ、自分自身の備忘録というか、一種の「アーカイブス」としての利用価値は大きく、大いに助かっています。

いまの若い人は、SNS での発信は、フェイスブックやインスタグラムが主流だと思います。老人だってトランプのような有名人はツイッターです。 

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そこそこ長いブログの文章を書いて載せるのは、人に見てもらう・発信するという本来の目的もありますが(読んでいただくのはまことに光栄・幸甚ですが)、

それと同じぐらい「自分の記録を残す」意味と価値が大きいです。

 

(6)活字の文章を発表したり、人様にお喋りする機会に、過去にブログにアップした記事を参考にしながら内容をまとめることがよくあります。

 

(7)柳居子さんも、「イノダ」と同じく365日ブログを発表しています。

https://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/diary/201902080000/

最新のブログは、京都に住む外国人との交流についてです。同氏も、ご自分の頭の整理、長い文章を書き、記録として保存しておくことにも意味を感じておられる筈です。

 

まだやっておられない方も、ブログを活用してみては如何でしょうか?

 

 

「バンク・オブ・トーキョー」と、両替やポンド紙幣のこと

  1. 前回のブログでは、ドル紙幣の写真を載せて、1ドルと5ドルの肖像は誰でしょう?と書いたのですが、もちろん、ワシントンとリンカーンの2人の大統領です。 

2.また、今も残るニューヨークの「バンク・オブ・トーキョー」ビルについて触れました。昔の銀行についてコメントを頂き、有難かったです。

(写真1-横浜正金銀行

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  Masuiさんからは、

――「東京の麻布の坂や町の名前が昔は歴史や景観を彷彿させるものがあったが、最近の地名は味気なくなった。

会社の名前もそうで、横浜正金や東京銀行などなくなり寂しい・・・」

という会話をお昼時にたまたま奥様としておられた直後に私のブログをみて、「我々の話が聞こえたようで不思議に思い、コメントした。Bank of Tokyo Building の話は社員でない私にも嬉しい、ほっとする気持ちです」――

と頂きました。

 

 

私も麻布の辺りは中高の6年間を通ったところなので、本当にそう思います。「坂」は仙台坂、鳥居坂などまだ残っているようですが、霞町、笄(こうがい)町、材木町などたくさんの名前が無くなりました。

 3.他方で岡村さんのコメントには、

――添乗業務で初めて欧州に行ったとき、外貨や小切手は東京銀行に再三顔を出し教えを乞いました。いずれも親切に教えて下さいました。

(当時はまだユーロがなかったので)両替に苦労した。余ったポンド(英)フラン(仏)マルク(独)を持って帰国した。

「日本の銀行は何処も替えてくれません。東京銀行だけが全ての通貨を替えてくれて、やっと精算が出来ました。

・・・・一つ一つ懐かしい、いい思い出です――

とありました。

少しはお役に立った銀行だったんだなと嬉しく思いながら拝見しました。

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(写真2-ユーロ) 

4.また岡村さんは、

「営業マンがヨーロッパを添乗すると体重で5キロ減り、精算で5万円足りなくなると言われています。」とも書いておられ、たしかに添乗業務はたいへんだろうなと思いました。「清算で5万円足りなくなる」とは両替で通貨を変えていくうちに計算が混乱してくるということでしょう。手数料を取られて目減りすることもあったでしょう。

 

これもユーロ導入前の話ですが、ロンドン支店に勤務していたとき、出張で来られたある日本企業の方に、両替の手数料が高いと言われたことがあります。

「例えば、日本から10万円を持って、まずロンドンでポンドの現金に換え、今度はドイツでマルクに、という具合に(当時の)EC12か国を順番に旅行して、最後にまた英国に戻ってポンドを円に換えて残りを日本に持ち帰ろうとすると(何も使わず、両替をしただけで)当初の10万円がほとんどゼロになってしまうという話を聞きましたが、本当でしょうか?」

 

という質問をされて、答えに窮したことを思い出しました。

真偽のほどは私にはいまも分かりません。

もともと私は銀行勤務といっても,計算や数字にうとく、家人からも「あなた本当に銀行で働いていたの?」と何度呆れられたかわかりません。

しかし、両替手数料が高いという気持ちは理解できるように思いました。。

その時は、

外国通貨の売買というのは、在庫を保有し、保険料や輸送料を払うのにコストがかかります。商品と考えて頂きたいのです」と弁解したような記憶があります。

 

 

]5.いまは、とくに若い方は海外旅行でもカード決済が主流かもしれませんが、それで

も現金も少しは持参される筈です。

ECはその後EU となり、加盟27か国、うち17か国で統一通貨ユーロが導入され、残りの10か国も今後の導入を検討中の国が多い。

欧州大陸を国境を越えて旅しても、岡村さんのような苦労をする必要は大きく減り、便利な時代になりました。

(写真3-ポンド紙幣)

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ところがご承知の通り、EUで独仏に続いて経済規模第3位の英国は、相変わらずポンドを使っています。

ということで、現在流通している英国の5ポンドと10ポンド紙幣の裏面の肖像(写真)は誰でしょう?

5ポンドは、言わずとしれたウィンストン・チャーチル

 

そして10ポンドは、19世紀前半、『高慢と偏見』でよく知られる小説家ジェイン・オースティンです。

 

因みに、英国紙幣の表(おもて)はもちろん即位以来エリザべス女王ですが、裏面の肖像は10年から20年ぐらいの周期で人物が変わるようです。

チャーチルは2016年から、オースティンは2017年からと比較的最近です(女性はナイチンゲール以来2人目)。20ポンド紙幣はいまはアダム・スミスですが、2020年から画家のターナーになることが決まっています。

 6.単一通貨ユーロの誕生は1999年1月1日ですが、長い準備期間を経て導入されました。

この間、英国は一貫してポンド維持の立場を譲りませんでした。1979~90年と長く首相の座にあったサッチャーは「国の通貨管理はその国の政府が行うべき」と真っ向から反対した。

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いま、BrexitをめぐるEUと英国との対立、英国政府と議会の混迷ぶりをみていると、ユーロ導入をめぐる歴史を思いおこします。

たまたま、1月26日号のエコノミスト誌は「英仏海峡の霧,英国もその隣人もお互いを理解していない(Fog in the Channel)」と題するコラム記事を載せています。

 

欧州駐在の同誌の記者の目で書いた記事ですが、Brexitの根っこには、英国と大陸諸国との間には大きな「文化」の違いがあり、双方ともにそこを十分に理解していない。

従って問題の根は深い、という指摘をしています。

同誌が言いたいことを私流にまとめると以下の通りです。

(1)英国が島国であり大陸と孤立していながら、しかも長く国際政治の超大国であったという誇りを捨てきれないこと。

(2)一方に判例法、他方で成文法という法体系の違いと過去の体験も大きい。

英国は、ルールは変えるためにあるという考えをしがちである。

しかし、専制や独裁に支配されたことのないプラグマティックな英国と異なり、ルールが適切に適用されなかった場合に起きる事態への恐怖感は、戦争の傷跡の残る大陸諸国では大きい。

(3)英国の貴族の暮らしを描いた「ダウントン・アビー」のテレビドラマを長く見すぎ

たせいか、大陸諸国は英国人の保守主義を過大評価しがちである。

しかし、実は英国人はときに過激になり、変革を恐れない。二大政党の対抗意識(ということは、階級間の意識の違い)も大きい。

  

大陸諸国はそういった英国の国民性を十分には理解していない・・・・・

英仏海峡を隔てる違いは大きい、根は深い」と今更、エコノミスト誌に言われても困ってしまうのですが、

それにしてもBrexitをめぐる英国の混迷は、同じ島国日本の一庶民にとっても大いに気になります。

 

「里の秋」「海行かば」そして「Bank of Tokyo Building」

1. 東京は良い天気が続き、相変わらず、メジロが昨日は二羽でミカンをついばんでいます。

2. 前回のブログに、童謡「里の秋」に出来れば「物語」が欲しいと書いたところ、
我善坊さんから3番の歌詞は、
「さよならさよなら椰子の島、お船に揺られて帰られる、ああ父さんよご無事でとー」で、「戦地から帰る父を待つ」という「物語」がある、
と教えて頂きました。
 私は3番の歌詞は知らなかったので、有難うございました。
他方で別の友人からメールを頂き、それには、「戦時中に作られたため、元の歌詞(3番、4番)は戦意高揚の意味が込められていたようです。戦後になって3番の歌詞を少し改変して世に出たそうです」とありました。


面白いなと思って検索したところ、ウィキペディアに記載があり、以下のような「物語」のようです。

(1) 作詞は斎藤信夫、作曲は海沼実。
1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、
引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。

(2) 他方で、『星月夜』(ほしづきよ)という童謡があり、同じ作詞家斎藤信夫がまだ国
民学校の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた。

1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という内容で締めくくられている。
童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。
やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。
そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。
戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。
電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。


(3) というような事情がある曲だそうです。
終戦当時、日本の国民のうち、外地と呼ばれる地域にいた民間人と軍人は約660万人。(略)この時代は一日一日を生きるのが必死であり、父親が無事に帰る事が希望だった家庭も少なくなかった。
反響が大きかった事情を考えると、食料や住居不足、インフレなど厳しい世相の中、「里の秋」は年の瀬の人々の心を慰めたと考えられる。」
ともあります。
たしかに、この歌には日本らしい、悲しい「物語」がありますね。

3. 戦争の悲劇を思い出し、それが「物語」を作り上げる歌はいろいろあるでしょう。
私の場合、記憶にあるのは、大伴家持長歌万葉集)に信時潔が曲をつけた「海ゆかば」です。

 
もう15年以上も昔ですが、叔父(母の弟)が亡くなり、その葬式に出た時です。
彼は学徒出陣をして、特攻隊の生き残りでした。
葬儀には同じく生き残りの戦友が6,7人居られたでしょうか。もちろん皆さんすでに老人でしたが、叔父のお棺の前に直立不動の姿勢を正して、敬礼をして「海ゆかば」を歌ってくれました。
http://www.youtube.com/watch?v=cPkAPiJqwlg
それから皆でお棺を車まで運んでくれました。喪主を務めた年下の従弟といまでもその思い出話をすることがあります。
叔父からは、戦友が眠る南の海に灰の一部を撒いてほしいという遺言があって、従弟はその後、実行したそうです。

海ゆかば」が軍歌なのか、鎮魂歌なのかについては、議論が分かれるそうです。しかしその葬式のときには後者だと強く感じました。


4. ところで今回の最後に、歌とは関係ありませんが昔話ということで、ニューヨークにある「Bank of Tokyo Building」の報告をさせて頂きます。

(1) 昔、「東京銀行」という名の銀行がありました。戦前の横浜正金銀行の資産を継承し、
戦後、外国為替銀行法に基づく唯一の専門銀行でした。
英語名はBank of Tokyoで、海外ではよく知られた名前でした。
その後、合併を通じて昨年には銀行名も消えました。
(2) ところが「Bank of Tokyo Building」という名前の建物がまだニューヨークに残っ
ていると最近、友人が教えてくれました。
ニューヨークの金融センターであるウォール街やトリニティ教会に近いブロードウェイの100番地にまだ建物が残っていて、1896年完成の「歴史的建造物」だそうです。
東京銀行ニューヨーク支店は100%子会社のアメリカの銀行だった東京銀行信託会社とともに、長らくこのビルの主要なテナントでした。
教えてくれたサイトによると、「この建物の正式名称は“Bank of Tokyo Building”だとあります。

http://www.skyscrapercenter.com/building/bank-of-tokyo-building/11969


他方で英文のウィキペディアによると、「正式名は“American Surety(保証) Building”で「別名(Alternative names) “Bank of Tokyo Building”」と表示されています。

何れにせよ、ネオ・ルネッサンス様式の、マンハッタンにある初期摩天楼の1つとして大きな意義のある建物だそうです。


(3) 関係のない方には何の興味もない話でしょうが、懐かしい方もおられるのではないで
しょうか。
東京銀行の名前は歴史の中に消えてしまいましたが、Bank of Tokyoの名前がまだニューヨークの記念的建物の名前に残っているということがちょっと面白かったのでご報告しておきます。

最後に「トリニティ教会」は日本語のウィペディアの説明もありますが、ブロードウェイ75番地にある米国聖公会英国国教会)の教会で、1846年に建てられたニューヨーク市の歴史的建造物です。
アメリカ建国の父」の1人で「立憲主義の著名な思想家」、そして初代財務長官で10ドル札の肖像に使われているアレクサンダー・ハミルトンの墓があります。
写真の10ドル札が彼で20ドルはアンドリュー・ジャクソン第7代大統領。
1ドルと5ドルが誰か、もちろんご存知でしょうか?

タイム誌「2018年今年の人」続編です


1. 前回は「みんなが愛唱するような第二の国歌があるだろうか?」と書いたところ我
善坊さんから、日本人の心情にぴったりではないかと「里の秋」、岡村さんからは「懐かしい思い出の歌」として“We shall overcome”“ Hobo's Lullaby(流れ者の子守歌)”をあげて頂きました。有難うございます。


「里の秋」に全く異存ありませんが、欲を言えば「素敵な物語」があるといいですね。
他方で、”We shall overcome“にはもちろんあります。
もう56年も昔、人種差別撤廃を訴えるワシントン広場に集まった25万の大群衆を前にキング牧師が「私には夢がある」の名演説をしたとき、ジョーン・バエズがこの歌を歌いました。You tube のサイトもあります。
https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A7dPhg_NzT5cExUAO9KJBtF7?p=joan+baez+we+shall+overcome+washinngton&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8

岡村さんにも以下のように「物語」があります。――「日本でもベトナム戦争に反対し、学生運動が盛んな頃、We shall overcome この歌を会場いっぱいの人達と歌って、歌い手と観客が一体となったと感じ、勝ち取る日が来るんだと信じて僕も歌ってた日があったんだなあと。懐かしい思い出です」。
日本でもこの歌を若者が一緒に歌った時代があったんですね。
いま、アメリカの若者も知らない人が多いかもしれません。


それぐらいアメリカは変わってしまったのではないか、という気がします。
” Hobo's Lullaby”は知らなかったのでYou tubeで検索しました。
https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RA2D6J1j5cjkcA4BuJBtF7?p=hobo%27s+lullaby&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8
これも、古いアメリカの匂いのする曲です。


2.さてお礼を終えて、今回はタイム誌「2018年今年の人」続編です。
タイムはアメリカの雑誌ですから「今年の人」の候補もアメリカ人が多い。
次点の第2位はトランプ大統領、3位はロバート・ムラー特別検察官です。
たしかにこの2人の対決が今年前半のアメリカ政治の大きな話題になるでしょう。

トランプについて言えば、

(1) 大統領に就任した2016年に「今年の人」に選ばれたのは、歴代大統領と同じです。
(2) ところが翌年の17年、翌々年の18年と2年続いて次点になった大統領は彼だけ
です。いかに話題性があるかということでしょう。
(3) タイム誌は、必ず「呼び名」を付けて「今年の人」を紹介します。
2016年のメルケル首相であれば「自由世界の首相」、17年のセクハラ摘発の女性たちであれば「沈黙を破った人たち」、昨年のジャーナリストであれば「(民主主義を)守る人たち」と言った具合です。

トランプにももちろん「呼び名」を付けましたが、3回とも否定的な言葉です。
2016年「今年の人」のトランプは「アメリカ分断国家(The Divided States of America)の大統領」,17年の次点では「扇動者(The Agitator)」,
そして今年の次点は「破壊者(The Disrupter)」と名付けられました。

(4) トランプは「国際関係をゆさぶり、独裁者を元気づけ、アメリカの政治をひっくり返し、公の論争(the public debate)を危うくさせた・・・」。そしてその点で彼の思惑通りの実績もあげている。
(5) しかしタイム誌は、「それが逆にアメリカの民主主義の顕著な健全さ・しぶとさを示す好機にもなっている」ととらえます。

「トランプが破壊しようとすればするほど、政治や司法のシステムや軍は抵抗を強めている、市民の反対も広がっている」と指摘します。
希望的観測といえばそれまでですが、トランプがむしろ健全な民主主義の大切さを人々の心に植え付けた、それを草の根で支えるのは、女性・若者そして有色人種の人たち(people of color)だ、彼らに期待しよう・・・・とタイム誌は強調します。

アメリカ人というのは基本的に楽観的な人種だなと感じさせられる文章です。

因みに昨年11月の中間選挙で下院は民主党235(+40)共和党195(−40)でした。
投票総数は、民主党61百万票弱、共和党約51百万票で、1千万票近い、8.6% の大差がつきました。
一概に比較はできませんが、前回の大統領選挙でトランプがヒラリー・クリントンに勝ったときに投票総数は、ヒラリーの方が多かったが、その差は3百万票、2.1%でした。民主党に勢いがあることは間違いないと思いますが、来年の選挙で強力な大統領候補がいるかどうかですね。


2. トランプ大統領は「破壊者」としての実績をあげて成功している面もある、しかし
包囲網も広がっている。
――としてタイム誌はムラー特別検察官を「今年の人」の次々点に選びました。
記事は彼の人となりがもっとも注目されると書きます。


(1) ムラー特別検察官の最終報告が2月にも公開される見通しである。ロシア疑惑や大統領選挙資金の不正使用(ポルノ女性との関係の口止め料に使われた)などでトランプの側近(もと大統領顧問や顧問弁護士や選挙運動の責任者など)が次々逮捕されているが、調査結果が注目されている。
もちろんトランプは「私は一切知らないよ」と一貫して否定している。
2人の、司法と政府権力の基本原理をめぐる戦いである。


(2) これまでのところムラーは、沈黙を守っている。インタビューも記者会見もツイッターもなく、捜査状況についての情報は事前にいっさい漏れていないい。

(3) ムラーはそういう人物である。
1944年生まれ。プリンストン大を出て海兵隊に入り、1年ヴェトナム戦争にも参加。帰国してヴァージニア大学院で法律を学び、司法の道を選んだ。共和党員で、ブッシュ(息子)政権時にFBIの長官になり、オバマ政権時も再任され12年務めた。

(4) 厳格で、気難しい。短気だが完璧主義者。好かれてはいないが尊敬されている。
黒白をはっきりさせるタイプで、トランプと性格は正反対に異なる。
ある部下は「もし自分の母親を起訴すべきと信じたら、彼ならそうするだろう」と語る。

(5) 調査報告で、トランプの共謀罪を立証できるかどうか?が最大の問題である。
もしイエスなら下院での大統領弾劾の動きが加速するだろう。
しかし、もし仮にムラーがトランプ有罪を立証した場合には、彼はより大きな挑戦に直面することになる。
在職中の大統領を起訴できるかどうかは、憲法には規定がない、起訴された前例もない。いまだかって明確な判断も示されていない。
司法省を含めて政府は従来から否定的な意見である。

この極めて難しい憲法上の問題にムラー検察官は沈黙を守っており、彼がどう考えているかは現時点では分からない。
最終報告が発表され、仮に有罪が立証されたときに、彼は自らの責任を果たすためにどういう行動をとるか?
そのとき、彼の性格が最終的に試されることになるだろう。

もちろんトランプも徹底的に妨害するでしょう。
この2人のこれからの対決は、野次馬的には面白いドラマになりそうですが、英国エコノミスト誌1月5日号は「トランプ劇場第2幕」と題する論説を載せて、「混乱」が待っていると懸念します。野次馬根性ではいられないかもしれません。

またまたヴェルディのオペラ「ナブッコ」から「Va pensiero(行け、我が想いよ)」

1. 寒い日が続きます。小さな庭の花みづきの木に家人が毎朝みかんを下げておくと、小鳥がやってきてつまんでいきます。メジロが多いです。


大きなひよどりがやってきて、小さいメジロの前に食べはじめ、家人はメジロに同情して追い払おうとします。「ひよどりだってお腹空いてると思うよ」と私が止めます。
 それから二人で朝の散歩に出かけます。
先週の某日は、朝から少し遠出をして小田急ロマンスカーに乗って箱根湯本まで日帰り温泉に行きました。

「はつ花」という老舗の蕎麦屋のあと湯本富士屋ホテルで入浴、「ユトリロ」という喫茶店でお菓子と珈琲を頂き、夕方には帰宅するという手軽で安上がりな「散歩」です。
ユトリロ」には、本物の彼の絵が飾ってあり、のんびりした、今は東京には少なくなった喫茶店です。


2. ところで今回は、「タイム2018年今年の人」の続編(次点など)を書こうと考えていたのですが、コメントを頂いたので、そのお礼と補足で終わりたいと思います。

まず、2013年11月1日付のブログに5年以上経った今年の1月6日付でコメントを頂いた澤田様にお礼を申し上げます。
こんな昔に書いた文章を今だに読んでくれる人がいること自体、なぜサイトに行きついたのだろうと不思議な気もしますが、まことに光栄です。
頂いたのは、「“第2の国歌、Va pensiero”は日本にもあるか?」と題する私の古いブログに、
「国民の歌『若い日本』はご存知ないでしょうか?2万数千の応募作品から選ばれた文字通り国民の歌です」という回答です。
申し訳ありませんが、私は知りませんでした。


3. ということで、古いブログとダブリますが、「Va pensiero(行け、私の想いよ、というイタリア語だそうです)」について以下に補足したいと思います。

(1) http://d.hatena.ne.jp/ksen/20131101
のブログは「イタリアのヴェルディのオペラ『ナブッコ』で歌われる合唱曲“行け我が想いよ、黄金の翼に乗って”がイタリア人に「第2の国歌」として愛唱されている。翻って日本で、自然発生的に皆が歌い、その背景に素敵な「物語」もあり、「これが第二の国歌」と言えるような歌は何だろうか?と問うたものです。


(2) 教えて頂いた国民の歌『若い日本』は、「東京オリンピックの前年、内閣、総理府
電通NHK、民放各社、新聞社、レコード会社などの呼びかけに、日本全国から2万数千の作品(歌詞)が寄せられた。そのうち3作に曲をつけてNHKで全国放送された」そうです。
この歌、Youtubeで聴くことができます。
https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2Ri8cjwbjlcyX8AkRmJBtF7?p=%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%AD%8C%E3%80%8E%E8%8B%A5%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8F&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8

これが「国民の歌」であることに異存はありません。
しかし、実は私が想定したのは、政府が号令して電通やメディアも一緒になって宣伝するような歌ではありませんでした。


4.(1)『ナブッコ』は1842年にミラノ・スカラ座で初演。旧約聖書に出てくる、紀元前バビロニアの王ネブカドネザルと「バビロンの幽囚」の話。
「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って」は、オペラの中で、囚われてバビロンの奴隷になったヘブライ人が懐かしい祖国を想って歌うコーラスです。
「O,mia patria, si bella e perduta! (ああ、失われた、美しいわが祖国よ!)」という一節もあります。
(2) 初演当時、イタリアはオーストリア帝国の圧制に苦しんで独立運動も盛んな時期であり、聴衆はこの歌を自分たちの「独立の想い」に重ね合わせで愛唱しました。
ミラノでのヴェルディの葬式のときは沿道に1万人もの市民が集まって、彼らがこの歌を自然に歌いだして葬列を見送ったと言います。

(3) 今も、『ナブッコ』でこの歌が歌われると拍手が鳴りやまず、指揮者はいったん流れ
を中断して、もう一度繰り返すこともあります。


2011年ローマ歌劇場でのリカルド・ムーティ指揮の時は、拍手のあまりの長さに、ムーティは中断して聴衆に語り掛け、時のベルルスコーニ政権を皮肉り、そしてもう一度タクトを振り、聴衆も立ち上がって一緒に歌いました。

この場面は以下のYoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=G_gmtO6JnRs

ムーティのイタリア語、私にはちんぷんかんぷんですが、こういう内容だそうです。
――「(観客)イタリア万歳!」
「(以下ムーティ)ええ、その通り、『イタリア万歳』。
しかし、私は今、祖国に起こりつつあることを、深く憂うるのです。
ですから、もし皆さんのご希望に答えて私が、<行け、我が想いよ、金色の翼に乗って>をアンコールするとしたら、それは単に愛国的な理由からではなく、合唱が
<おお、かくも美しく、失われたわが祖国よ、Oh,mia patria si bella e perduta!>と歌うとき、
もし、私たちが、イタリアの歴史を背負っている文化を殺してしまうなら、まさに、かくも美しく、そして失われた祖国になってしまう、と私は思うからなのです。(拍手)


今ここでは、とても雰囲気が盛り上がっていますし、私ムーティはかくも永き間、聞く耳を持たぬ者を、幾度となく説得しようとして務めてきたのですから、私たちの家、この首都の歌劇場で、合唱は素晴らしいし、オーケストラも見事に演奏したところで、皆さんもどうぞ加わってください。
皆で一緒に歌いましょう(拍手)」―――


5.指揮者と演奏と舞台と、そして観客が一体となった、いい場面だと思います。
背景を理解して、このYoutubeを聴くと、また気持がいっそう引き込まれます。


以上が、私が考える「「第2の国歌」と言われるような歌をめぐる物語」です。

タイム誌2018年「今年の人(Person of the Year)」は?

1. このブログ、いつまで続くかわかりませんが、今年もよろしくお願いいたします。

東京はよく晴れた、気持ちのよい元旦でした。朝早くから、ほとんど人の姿をみない東大の研究所とキャンパスを歩きました。
夕方から、子供や孫たちが現れ、賑やかでした。いつも、前年話題になったサブカルチャーについて彼らから教えてもらいます。2018年について我が家の若者が言うことは、


(1) 音楽とダンスでは「DAPUMP」というグループの「USA」という曲。   https://sarukozi.com/2018/07/30/dapumpusa/#USA

彼らのダンスが「ダサかっこいい」と評判になっている、
歌詞にある「どっちかの夜は昼間」という言葉も話題。
(2) 笑いでは、「和牛」と「霜降り明星」という2つの漫才師たち。
(3) 映画では「ボヘミアン・ラプソディ」「カメラを止めるな」そして「万引き家族」、
だそうです。
テレビで紅白を見ている人は、とっくにご存知かもしれません。
私たち夫婦は毎年紅白は敬遠しているので、映画の名前を聞いたことがあるぐらいで、あとは名前も何も知りませんでした。

もっとも、こういう話題がいつまで続くのでしょうか?
2017年1月に若い世代から聞いたのは「恋ダンス」と「ピコ太郎」でした。この2つ、いまはどうなっているでしょうか?


2. 以上は前置きで、今回取り上げるのは恒例のタイム誌「2018年Person of the Year(今年の人)」の報告です。
昨年の2018年は、「(民主主義を)守る人たちと真実の闘い(The Guardians & the war of truth)」と名付けて、複数のジャーナリストを選びました。
具体的には、

(1) トルコのサウジ・アラビア総領事館で殺害された、ジャマル・カショギ氏
(2) ミャンマー少数民族ロヒンギャの虐殺を報道したとして7年の有罪判決を受けた、ロイター通信所属のミャンマー人2人
(3) オンラインのニュースサイトを立ち上げ、脅迫をも恐れず、フィリピンのドゥテルテ政権の弾圧や違法な殺害を告発し続ける女性マリア・レッサ
そして、
(4) アメリカのメリーランド州アナポリスにある歴史の古い地方紙「キャピタル・ガゼット」。同紙は自身のセクハラ・ストーカー報道に不満をもつ男に襲撃され、記者ら5人が殺害された。
の3人と1団体を選びました。


3. 以下は、同誌編集長による、選出の理由付けです。
(1)いま世界は、巨大な、グローバルな問題を抱えており、力を合わせてその解決に当るためには、基本的な「事実」を共有することが重要である。
だからこそタイム誌は、真実を見つけ・伝えることに命を捧げる人たちを「2018年今年の人」に選んだ。

(2)「今年の選択は、国際政治における不吉な動きを象徴しているかもしれない。
しかし、同時にまた、普通の人たち(ordinary people)が偉大な何かのために立ち上がることができるという事実を教えてくれるのだ」・・・・・

(3)ミャンマー最大の都市ヤンゴンで32歳と28歳のロイター通信の記者が一年以上牢につながれている。イスラム少数民族への弾圧・虐殺を報道した2人は、国家機密を入手したという疑わしい罪状で起訴され、一審で7年の刑を宣告された。
これは、自由にとって生命である情報の流れと論争(debate)を規制しようとする、独裁・専制国家による顕著な動きである。

(4)世界の民主主義はここ何十年で最大の危機に面している。真実を欺き、操る行為は今年の報道でも最大の話題であり、自由に対する恐るべき脅威となりつつある。
2018年、ハンガリーで、インドで、ロシアで、アメリカで、メキシコ・・・などで、昔ながらの情報源への妨害や抑圧が数を増した。


2018年12月10日現在、少なくとも52人のジャーナリストが真実を報道する戦いで命を落とした。2017年には262名が牢屋につながれ、今年はこの記録的な数字を上回るだろう。
彼ら、3人と1団体は、これら全てのジャーナリストの代表として選ばれた。


(5) 因みに、「サウジ・アラビアのムハンマド皇太子が進める国内改革などに批判的な記事を書いていた」カショギ氏について言えば、タイム誌が、すでに死去した人物を「今年の人」に選ぶのは92年の歴史で初めてである。



報道の自由への抑圧は、サウジやフィリピンやミャンマーのように、権力者からなされるだけとは限らない。
アメリカの「キャピタル・ガゼット紙」を攻撃したのは、真実への報道に怒った普通の人間によってなされた。
アメリカのテレビ放送局CNNは、爆弾を仕掛けたという脅しを受けて、2回にわたりオフィスから避難する事態が起きた。


(6)メディアは時には判断の過ちを犯し、正確さを欠くこともある。
しかし、にも拘わらず、彼らの存在は民主主義の基盤である。

・命を賭けても、より価値のある真実を追い求める勇気のゆえに、
・市民が自由に話し合うためには、事実を追求することが不可欠であるがゆえに、
・自由に自らの思うことを言い(speak up)、勇気をもって発言する(speak out)ことの大切さゆえに、
―「(民主主義を)守る人たち、すなわち”ザ・ガーディアンズ”」が「2018年、今年の人」である。


4.タイム誌は、2017年には、アメリカで始まり、世界に広がった「セクハラ」告発の動きに立ち上った61人を「沈黙を破った人たち(The Silence Breakers)」と呼んで選出しました。
2015年はドイツのメルケル首相、16年はトランプ大統領でした。
その後、タイム誌は2年続けて、世界のリーダーでも権力者でもない、「普通の・複数の人たち」を「今年の人」に選出したことになります。


2017年に「沈黙を破った人たち」を選ぶにあたって、タイム誌は以下のように説明しました。18年との連続性を感じる文章だと感じます。

(1) タイム誌はいままで「偉大な人間が歴史を作る」という考えに沿って選んできた。
しかし、今年は違う。「今年は、世界は「草の根」からだって変えられるということを思い起こす重要な第一歩の年になるのではないか」。

(2)~~~~
・そして、私たちすべてを、「受け入れ難いことは決して受け入れてはならない」という確信に導いてくれたがゆえに、
「Silence Breakers」が「2017年の、今年の人」である。

(3)運動は始まったばかりであり、これからどうなるか、不透明な面もある。反動や揺り戻しもあるかもしれない。
未来は、真実を語ること自体が脅かされるという現実をどこまで変えられるか?にかかっている。

ハチ公像、そして大岡信の『日本の詩歌、その骨組みと素肌』

1. 今年最後のブログです。前回には渋谷の忠犬ハチ公像の写真を載せました。年末に
なっても、外国からの観光客が行列をつくってハチと一緒に写真を撮っています。

コメントを頂いたHiranoさんによると、自分にはこういう外国の友人が何人も居る、愛犬にHachiと名付けた人も2人いる、とのこと。
2009年に『Hachi』というアメリカ映画が出来て、彼の友人が「私は10回見ました、いつも泣き通しでした、始まったとたんに泣きました」などと言っていた由。この映画が人気に火をつけたのですね。


2.また前回のブログは、平安時代の貴族がちゃんと仕事をしていた事実を克明に調べた『公卿会議』という「中世の朝廷で政治的決定がなされる姿を説明した好著」(磯田道史)も紹介しました。著者の美川教授は、
平安時代の貴族は、政務をおろそかにして、毎日詩歌管弦に時を過ごし、遊んでばかりいたように思われがちである」という先輩の学者の言を引用して、
「一般的な貴族のイメージは(略)いまだにほとんど変わらない。テレビを見れば、武士ばかりが勇ましく、貴族はただ「なよなよ」とし、いわば「生産性のない」人々として描かれることがいたって多い。実に残念なことである」
と書いておられて、こういう問題意識は面白いし、大事だなと思って読みました。

3ただし彼らが、詩歌管弦や恋の逢瀬に多くの時間を割いたことも事実ですし、もち
ろん美川さんもそのことを否定しておられる訳ではありません。
そしてそのことにも大きな意味があったことを伝える書物に、大岡信の『日本の詩歌―その骨組みと素肌』(岩波文庫、2017)があります。

(1)本書は、同氏がパリの高等教育機関コレージュ・ド・フランスで1994年と95年に行った5回の講義録を本にしたものです。
講義は、フランス人の受講生に対して、日本の詩歌の中から、和歌を3回、菅原道真漢詩と中世の歌謡についてそれぞれ1回を取り上げて行いました。
約390年におよぶ平安時代の、とくに前半2世紀は比較的平和な時代であり、「文学的に最も豊かな時代」であったと高く評価します.


(2)まず第1回の菅原道真ですが、彼を「日本古代最高の漢詩人」として、政治や社会問題を取り上げた彼の詩は、近代以前の日本の詩史には他にないと言います。そして、その後、詩の主流は和歌の繊細と洗練にうつり、漢詩と和歌との間に横たわる大きな深淵を指摘します。


(3)次に和歌です。とくに最初の勅撰和歌集である古今集を中心に取り上げます。
古今集は、905年にできて、約1100首を収録。紀貫之他が醍醐天皇の命で編纂。
「10世紀初頭の日本に生じた、中国(唐)崇拝から自国尊重への、漢詩文から仮名文字文学への一大転換を象徴するもの」であり「以後20世紀初頭にいたるまで、一千年間、詩歌をはじめとする日本のあらゆる芸術表現、美意識の根本を形づくった」。

(4)和歌の特性としては、短い、四季と恋の歌が中心、「和」する、自己主張が少ないこと(「日本語の重大な欠陥」でもある)などをあげます。

・核心にあるのは「人間の心」、(略)鳥や獣、虫や魚とともに詩を歌う心である。
・「心を相手に合わせて互いになごやかに和らぐ」ことが、和歌という語の根源的な意味。

・すなわち歴代の「勅撰集」を貫く基本的な編集理念は、人間の「和」を求める心が超自然の力さえ和らげ、調和させる、そのための最も尊ぶべき手段が「和歌」である。
「それは、歌が他の人によって、さらには人間以外によってさえ応答され、両者の間に唱和する関係が生まれることでした」。
・これこそ、500年間以上にわたり、21人の天皇のもとで「勅撰和歌集」が編纂され続けた最も根本的な理由であった。

――そんな大岡の文章を読みながら、ハチの銅像を愛でる外国人のことも思いました。彼らも、ハチと「なごやかに和らぐ」、歌の心をすこし感じただろうか。


(5)したがって、大岡は和歌は原理的にみて女性なしには存在しえない詩であった、女性作者の存在が大きかったとして、笠女郎、和泉式部式子内親王など具体的に紹介します。「ある種の天才的女性詩人にあっては、恋の歌は彼女の全人生を要約し、象徴しているものとさえなった。恋の歌がそのまま哲学的瞑想の詩となった」と評価します。


例えば和泉式部であれば、「眉目秀麗で誠実だった」敦道親王冷泉天皇の皇子)の死を悼む、
<黒髪の、乱れも知らず打伏せば、先ず掻き遣りし、人ぞ恋しき>
について「肉体のなまなましい記憶につながるだけに、死者への哀しみは痛切です」と言います。
<君恋ふる、心は千々に砕くれど、一つも失せぬものぞありける>
――大岡は言います。「亡くなったあなたを恋する心は、千々に砕け散ってしまった。けれど、砕けた破片一枚ずつの中に、私の恋い慕う心がこもっているから、結局あなたへの恋心は、一つも失われてしまうことはない、というのです」。


(6)最後の講義では和歌から離れてより庶民的な、「梁塵秘抄」「閑吟集」などの中世の歌謡を紹介していることも重要です。そして例えば、
<何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ>
(大意―何だというのか、まじめくさって。人生なんて所詮夢ではないか。ただ狂うがいい)のような「虚無的な明るさ」をもった歌謡を紹介し、
ほとんどの作者が不明であり、中に遊女が多かったこと、「女たちが歌謡史において果たした役割の大きさは、どれほど強調してもしすぎることはないでしょう」と言います。


4.実は本書は、毎月やっている世田谷読書会で今年最後のテキストに取り上げて、当日熱心に話合いました。「よい本を読んだ」という感想が多かったと思います。
 「この講義が果たしてフランス人にどこまで理解できただろうか」という疑問も提起され、学校から古文の授業が消えていく現状をふまえて「現代の日本の若者だって理解できないのではないか」あるいは「和歌や古文がこれからの日本人にも継承されていくだろうか」といった懸念も寄せられました。
しかし他方で、「漢字をもとに仮名という日本独自の文字を発明したことの意義をあらためて感じる」「古典は自分自身のアイデンティテイにつながる」「マンガやテレビを通じてでもよいから、百人一首などの知識が伝わり、美しい日本語が継承されていくのではないか」といった意見もでました。
また塾で小学生に、大岡信編集・解説による『声で読む日本の詩歌』をテキストに、万葉から現代にいたるたくさんの詩歌を読ませているという素晴らしい試みも紹介され、心が少し明るくなりました。

最後に、妹さんと同じ小中高に通い、一緒に古文や漢文の授業を懐かしく思い起こしたこと、母上が『折々のうた』のいちばんの愛読者で、亡くなる少し前に、どうしても行きたいというので大岡信の講演会に連れていったという思い出を紹介された方があり、「日本に生まれて、日本語で生きてこられたことの喜びを感じる」という彼女の感慨を聞きながら、しめくくりとなりました。