原田マハの『美しき愚かものたちのタブロー』と『異邦人』

  1. このところ原田マハさんの小説を、夫婦で競争で読んでいます。今回は、

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『美しき愚かものたちのタブロー』(2019年、文藝春秋、「タブロー」は絵画のこと)

『異邦人(いりびと)』(2018年、PHP文芸文庫)

の2冊を取り上げますが、前者は茅野市の図書館から借り、後者は縁あって直接著者から頂戴しました。

2冊とも、もと美術館の学芸員だった著者がもっとも得意とする、美術を取り上げた作品です。

 

  1. 『美しき愚かものたちのタブロー』は、「史実にもとづくフィクション」という断り書きがあります。

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(1)1916年頃から26年にかけて、実業家松方幸次郎(明治の元勲、正義の4男)は、パリやロンドンで印象派の名画などを大量に購入した。

本書は、

・日本に初の西洋美術の美術館を作って本物を若者に見せたいという夢を叶えるために、松方たちが収集に動く、

・購入した絵画を戦争中必死に守ろうとする人たちがいた、

・「松方コレクション」は戦後フランス政府に没収されていたが、日本側は、講和成立直後の1953年、返還(フランス政府は最後まで「寄贈」と主張)交渉を何とか成功させる、

・その条件として1959年上野に国立西洋美術館が完成する、

までを追った物語です。

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(2)松方幸次郎が、クロード・モネが晩年を過ごしたパリ近郊のジベルニーの住まいを訪れる場面や、ゴッホの傑作「アルルの寝室」を購入する逸話など、西洋絵画に興味のある人にはとても面白い。

ちなみに、フランス政府は没収していた松方所蔵の西洋絵画351点彫刻67点のうち21点は「国の宝であり、国外に持ちだすことは許さない」と最後まで「寄贈」を拒否し、「アルルの寝室」もその1つでした。いまはパリのオルセー美術館に展示されています。

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  1. 物語の魅力を話し始めると切りがありません。ここでは些細なことを一つだけ紹介します。本書の主な舞台はパリですが、松方はロンドンにもニューヨークにも滞在します。彼の助手として働く若い日本人2人が、当時の3つの大都市を比較して語る場面があります。   

 

――ロンドン:堅牢な煉瓦作りの建物、整備された街並みには電柱も電線もない。成熟した都会の景観に圧倒される。しかし、つんと取り澄ましたところがある。気取った貴族の奥方のようだ。

 他方でニューヨークは、賑やかで雑多、おきゃんな女学生という感じ。

 そして何といっても、パリは別格。「そりゃもう、運命の女(ファム・ファタルだね」。

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  1. この「運命の女」と言う言葉を、原田マハさんは京都についても使います。

(1)『異邦人』は京都を舞台の小説です。こちらは実在の人物は登場せず、しかしやはり美術(日本画)を取り上げ、個人美術館や画商や画家の内幕を伝えてくれます。あっと驚く展開が多く、巧みな物語づくりに感心します。

(2) 同時に、川端康成の『古都』をお手本に書いたそうですが、四季折々の移り変わりや行事が美しく、華やかに描かれます。

(3)そして主人公の女性・菜穂(個人美術館の副館長)が、京都に長逗留し、この土地の魅力にのめりこんでいきます。菜穂の夫(銀座の画廊の跡取り)は、こう感想を漏らします。

 

―――この街は、ぞっとするほど魅力的だ。・・・・同時に、近寄りがたいほど気高い。

まるで、運命の女(ファム・ファタルのように、魔物のように、美しい。

底なしの湖のように奥が知れぬ。冷たく、そら恐ろしい。―――

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作者がパリと京都をともに、サロメカルメンを指す言葉としての「運命の女」という同じ比喩で例えているのが面白いです。

 

(4)「余所者は、到底この街には受け入れられないだろう。

 菜穂は、それに気づいていない」ともあり、

私のように仕事で13年京都に住んだだけではまさに「異邦人(いりびと)」なのだろうなと思わざるを得ません。

そして、よくコメントを頂く何人もの生粋の京都人が、原田さん描くところの京都をどう感じたかに興味があります。

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(5)最後に、その京都人のひとり、藤野さんの京都御所南にあるお住まいが、本作がテレビ化されるにあたって舞台に使われるという朗報をご報告しておきます。

このお住まい、国の有形文化財になり、「藤野家住宅」として一定時期に公開されています。

国登録有形文化財 藤野家住宅 (fujinoke.kyoto)

撮影はもう終わり、女優さんが3人来て一日がかりの撮影だったそうです。11月にWowowから放映とのことです。

「一座建立(こんりゅう)」と頂いたコメントについて

  1. 先週は当地も雨が多く、早めに畑の収穫を娘夫婦と終えました。 

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この畑を一緒に借りている宮本さんが、「野点」にお点前を披露してくれました。

 

(1) 京都から参加してくれた従妹夫婦は, あの後、緊急事態宣言に入り、ぎりぎりのタイミングで来られてラッキーでした。

(2) 「林の中の野点は最高でした。お点前席がよかったですね。なにもかも手作りと創意工夫で。本来のお茶はきっとこんなものだったでしょう」

という彼女のメールを宮本さんに知らせたところ、

f:id:ksen:20210803111247j:plain(3)「爽やかな風と八ヶ岳融雪の伏流源水をご馳走に、落葉松からの木漏れ日の中でのひと時は、お点前をしていても最高でした。

 客組のすばらしさ。お茶の集いは、客組で決まるといって過言ではありません。

謙虚に洒脱に会話を運ばれる雰囲気は、文字通り一座建立の極み。亭主冥利に尽きる時間でした」という返事が来ました。

 

「一座建立」という言葉を検索すると、「茶会の参加者が心を合わせ、心地よい一体感が生まれる状態を表す」という説明があります。

 

(4)山崎正和の『社交する人間』の言葉を、またまた思い出しました。

――「この世で人が人に会うことの不思議さに感動し、1回ごとの邂逅(かいこう)を生涯の大事と考える「一期一会」の教えは、日本の「茶の湯」の中心的な思想だった。

 西洋でも18世紀の前半には、社交に文字通り命を賭けて、「虚礼」を実業以上に人生の義務として重んじる人が生きていた」。――

 

 そして山崎は、「社交を成立する条件として、人間の平等とそれを許容する平等主義が必要だ」とも指摘します。国家や企業の「タテ社会」を補完する人間関係として「横のネットワーク」の大切さと言ってもよいでしょう。そしてそれが、相互扶助にもつながるでしょう。

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  1. 前回のブログでは、「有難う」の大切さにも触れました。

 

(1)藤野さんから、「京都では最近までバスを降りる小学生は、「有難う」と運転手に言って降車していました」というコメントを頂きました。

ご自身は「おおきに」と声を掛けて降りる、買い物の時も同じ言葉を口にするとあります。人生の先輩が模範を示し続けることが大事ですね。

 

(2) ドイツ在住の刈谷さんから、「ドイツもダンケ(有難う)は見知らぬ人同士でもよく言う。「困っている人には親切です」とありました。

――ドイツ人は議論をきちんとする。だから守るべきルールが誰にも明確になり、皆が守ろうとする。

 お礼もクレームも日本よりハッキリ言う傾向がある。議論になるとハードだが、忖度する手間は省ける。逆にルールがないところではカオスになりがち。―――

 緊急事態宣言で右往左往している国と比較すると面白いです。

 

(3)Masuiさんからのコメントも引用します。

--―手紙や葉書はよく書く方です。それが一番心がつながると思うからです。

 母が亡くなる2年前ぐらいに、海外の仕事で大変忙しく毎週のように外国へ出かけ、会う機会が全くなかった時期がありました。

 そんな時には、どこの国の空港でも到着したらすぐその場で当地の絵葉書を買い、「今日どこどこで、元気にしています。お母さんも元気でね」。それだけ書いて出していました。

 母は、葉書を受け取ると胸に当ててアキラから葉書が来たと、一緒に住んでいた弟にいつも見せていたそうです。内容は簡単なものですが、母の心を強く動かしたのですね。――

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(4)なかなか出来ないことだなと、心に沁みました。優しい人柄が伝わってきます。

同時に、少し苦い気持で自分のことを振り返りました。海外に長く暮らし、母から手紙がよく来ました。果たして、まめに返事を書いていただろうか・・・・。

 

  1. 最後に岡村さんからです。彼もMasuiさんのコメントに反応してくれました。

――「最近、子供の頃をよく回想することがあります。

 川本さんが書いている、「過去を振り返って少し胸が痛くなるような「悔い」が蘇ってくる、優しくしてくれた他者に対して同じ優しさで迎えることが出来なかった、あの時もう少し相手の気持ちに寄り添うことが出来たら・・・」を読んで、一つ一つ、自分に当てはめてうんうんと頷いています。

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 そして、こう続けます。

――「自分はMasuiさんのように礼状を書かなかった。

 渥美清が、海外にロケに行ったおり、母親に宛てた絵葉書に「俺、元気」とだけ書いて毎日送ったそうです。

 難しく考えるから書けないのでしょうね。(子供のとき祇園で)遊んでくれた人たちは90歳をゆうに超えています。ありがとうの一言でも書いて送ればと今更ながら思うのです。ーー

  昔を思い出して悔いるのは私だけではないのだと思いながら、読みました。

広島・長崎原爆の日と蓼科でのお茶会が終わって

  1. 前回は、茅野市の平和祈念式と、山奥での野点について書きました。

(1)Masuiさんが、広島平和記念式典のテレビ中継を見ながら、「今頃私が参列しているだろうなと思った」と書いてくださいました。

優しい気持が伝わり、感激しました。

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(2)松井広島市長は式典で、「被爆者の願いを引き継いだ若者が行動し始めていることは未来に向けた希望の光です」と語りました。

 9日の田上長崎市長は、「第1回締結国会議にオブザーバーとして参加し、核兵器禁止条約を育てるための道を探ってください」と、政府と国会議員に訴えました。

 

 (3)7日付毎日新聞は、国連で軍縮担当事務次長として活躍する中満泉さんの言葉を紹介しました。

彼女は、オブザーバーとして参加した場合日本も発言できるため、「唯一の戦争被爆国としての知見、経験を持っている日本の貢献を期待している国がたくさんある」と指摘します。

また「政府や菅首相のように核禁条約の実効性に懸念を持っている立場であっても逆に「それを発信できる機会でもある」と説明します。

読みながら、中満さんは“日本政府よ、逃げるな!“と言っていると感じました。

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(4) 公明党の山口代表は「当面はオブザーバー参加、これが党の立場だ」と述べたそうです。口先ではなく本気で、連立を割るぐらいの気持ちで行動して欲しいです。

 

  1. お茶の集まりに京都から来てくれた従妹夫婦の話もしました。

(1)京都御所近くの自宅から電車を3回乗り継いで茅野に到着して、駅からホテルの送迎バスに乗ってさらに40分、片道だけで5時間弱かかる大旅行です。

(2)幸いに好天で、緑陰での集いは大成功でしたが、忙しい身で遠路はるばるよく来てくれました。

(3)お茶の宗匠ともども感謝していたところ、むしろ従妹から早速電話とメール、連れ合いから手書きの礼状が届いたので恐縮しました。

(4) 従妹の夫の手紙は、「茅野の一日、夏の思い出=山荘・山居と市井・洛中の家」と題した感想文の体裁です。

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ーー自然がいっぱい、水が美味い、空気が冷たくきれい、ところが車がなかったら生活しにくい。

 きっと人情も熱いのであろう。人とのつながりはその分だけ薄く、反対に濃い絆が生まれる。

――家に帰り、洛中の小さな庭。それは文字通り、箱庭の世界。自然の一部を小さく移したもの。空気も生あったかく、水もそれほど美味しいものではない。人とのつながりもそれほどのものではない。これは良い意味でも悪い意味でも・・・・

――(お住まいでの暮らしは)鴨長明の心境ではないかと想っています。茅野の夏のひと時は、実に楽しいものでした。

・・・など書いてあり、9頁に及ぶ直筆の手紙で、同文が宮本宗匠にも出ています。

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3. 京都人は、巻紙に毛筆とまでは言わないものの、いまもこうして手書きの手紙を出

すのかと感心しました。

 

(1)それにしても、言葉や文字で「お礼を言う」というのは大事ですね。

実は私はそのことを、英米の暮らしで学びました。当時の彼らは、何かしてもらったら必ず「有難う(Thank you)」と言うのが印象的でした。歩道の屋台でコーヒーを買って受け取った時でも、エレベーターを降りる時に先に譲ってくれた人にも。

 

(2) 20代に初めてアメリカで暮らしたとき、「英語でいちばん大事なのは“Thank you

“という言葉」と言われたことがあります。

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(3) 文字にすることも大事です。今は電子メールが主流かもしれませんが、当時は家

族・友人間でもビジネスでも、何かの機会に必ず「Thank you レター」・「Tank youカード」を書いていました。

ビジネスの場合は手書きは殆どありませんが、例えばビジネス・ランチが終わったら、すぐに礼状を出します。秘書が昼食から戻ってきたボスから、ランチの模様を聞き取って見事な英文をタイプしてくれます。ボスはそれにサインして、礼状はただちに発送されます。

 

(4)この礼状、本当に早く届きます。それでジョークがあって「某さんを昼食に招く約

束があって、そろそろ出かけようと思ったら、秘書が手紙が届いたと持ってきた。開けてみたら、昼食がいかに楽しかったという当の某さんからの礼状だった」。

(5)その代わり、「物のお礼」はしません。心のこもった言葉と手紙(あるいは

カード)をすぐに伝える、これが大事、かつこれで十分なのでしょう。 

茅野市平和記念式典と緑陰での野点(のだて)

  1. 先週は、コロナ禍でも屋外に出て人に会う機会がありました。

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(1) 1つは「茅野(ちの)市平和祈念式」です。例年、広島に原爆が投下された8月6日に実施され、今年が26回目でした。

 

昨年と同じくコロナ対策で、席の間隔を空け、式次第も短縮されました。市の中学生10人が広島・長崎両市長からのメッセージを読み上げ、原爆投下時間の朝8時15分に黙とうをし、そのあと千羽鶴の「献鶴」と献花をして終わりました。

 

参加者は茅野市長他60人ほど、若い人たちの姿も見え、継続していくことに意味があると思っています。

この時期、2014年までは京都の仕事(集中講義など)がありましたが、15年からは茅野に滞在し、ここ7年続けて妻と出席して黙とうと献花をしています。

 

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(2) 原爆忌や茅野の式典については、ブログでも毎年取り上げています。2019年のブログは、地元の中学でジョン・レノンの「イマジン」を生徒と歌う、式典で出会った若い先生の話。24回茅野市平和祈念式典とジョン・レノンの「イマジン」 - 川本卓史京都活動日記 (hatenablog.com)

 

(3)  今年は核禁止条約が発効された年です。現在、条約の批准国は55か国、署名は86か国。条約への署名・批准を求める意見書は、茅野市を含めて現在589自治体から出ており、全1718自治体の34%強に上りますが、日本政府は無視しています。

 

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2. もうひとつ、8月3日(火)に、ワクチン接種を終えた高齢者が集まり、庭で簡単なお茶会を開きました。

(1) お茶を点てて振る舞う亭主役は近くに住む年下の友人宮本さん、裏千家宗匠です。彼が居たから可能になりました。

 

(2) 宮本家には茶室もありますが、今回は「密」を避けて野点をやろうという趣向

でした。

 格式ばったことはやめて、作法もほぼ無視して、緑陰のなかでしばし浮世の憂さと騒ぎを忘れ、お茶を楽しむ趣向です。

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(3) 但し、宮本宗匠は準備も入念、「矢筈のすすき」を大きな花入れにいれて飾ったり、水指し(釣瓶)にいれた近くの名水(当地は八ヶ岳を源流とするおいしい水がある)を振る舞ったり、濃茶の茶碗は、大樋焼、赤楽、萩、唐津、志野と客によって使い分けるなど、心遣いいっぱいでした。

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(4)宮本夫人も尽力してくれました。主(おも)菓子もお干菓子も彼女の手作り、地元の食材を使い、干菓子は数日前に知人の竹林で切ってきた青竹を細工して器にしたという苦心の代物です。

 手作りのお菓子を含めて素朴な、まさに、沢庵和尚のいう「天地自然の和気あいあいをもてあそぶ」茶の精神を体現していると感じました。

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  1. 今回の催しの趣旨は、京都の従妹夫婦を信州の山奥に招くことでした。(1)二人は遠路はるばる、電車を2回乗り換えて2泊し、お茶や食事会や温泉やお喋り

を楽しんでくれました。昨年の1月末以来京都に出かけていないので、久しぶりに彼らに会いました。

 

(2)従妹夫婦もコロナ発生以来どこにも行っていない、親しい友人に会う機会も少な

い、そんな状況なので、気分転換になったと思います。

猛暑の京都に帰ってから、「ヤッパリ、楽しいことしなくてはねえ。これからもよろしくお願いいたします」というメールが届きました。

 

(3) お茶を頂いたあとは、同じ場所で妻の手料理のサンドイッチを皆でつまみました。

お喋りに花が咲きました。

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従妹の家は京都御所の北、今出川通をはさんだ反対側にありますが、御所の庭には

野良猫が住んでいる、そのうちの雄雌二匹が人も車も往来の多いこの通りを、横断歩道の青信号の時に渡ってでも来たのか、家まで辿り着き、縁の下に居ついてしまった。

追い出すわけにも行かず、仕方なく「光・ド・ニャン」「ニャン・紫」と名付けた、そうしたら子供まで生んでしまい貰い手に困った、というような埒もない話を笑いながら楽しく聞きました。

 御所生まれの野良猫に、光源氏と紫上という雅な名前を付けたものです。

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4.こういうひとときが、山崎正和のいう「社交の精神」ではないかと再認識した次第です。

不要不急の外出自粛と批判されるかもしれません。しかし、人の少ない山奥に、ワクチン接種を終えた高齢者がごく稀に集まるぐらいは、許してほしい。残された時間の少ない老人にとって、こういう「社交」の時間はとても大事なのです。

ワクチン接種が早く若い人にも行き渡ることを願います。

樋口恵子さん『老いの福袋』と「老兵は~ただ消え去るのみ」

1.前々回のブログで、終末期医療の病院と女性医師を紹介しました。医師は、南杏子筆名で『いのちの停車場』などベストセラー小説も書く人です。

 友人からコメントを頂きました。図書館で300人待ちと言われたので、購入して奥様と読み、感動した。「他人ごとではなくなりました」とあり、同感です。

「老い」の問題もまさに他人事ではありません。別の友人から勧められて、『老いの福袋、ころばぬ先の知恵88』(樋口恵子、中央公論新社)を読みました。

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2. 早速アマゾンで注文し、妻はすぐに読んでしまい、夕食時に感想を話してくれました。

著者は、NPO「高齢社会をよくする女性の会」理事長、89歳。「介護の社会化」を旗印にした介護保険制度が発足するにあたって尽力したそうです。

初版が5月に出て、購入した7月にすでに5版でした。

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3本書は、日本がいかに高齢社会であるかを再認識させてくれます。

(1)「高齢化率」(全人口に占める65歳以上の割合)

――2020年9月の日本は28.7%、うち女性は31.6%、世界でダントツのトップ。

(2位はイタリアの23.3%)。

(2)2025年には、国民の10人に3人が65歳以上5人に1人が75歳以上の老人になる。

➡「どこを見てもおじいさんおばあさんだらけになる」。

(3)女性と男性の割合を比べると

➡高齢者(65歳以上)で、女6:男4,85歳以上に絞ると女2:男1,100歳以上だと、なんと9:1。

日本は「ローバ(老婆)帝国」化している、独りになった女性の多くは男性より経済力がないので、貧困が大きな問題になる。

(4) 日本人の平均寿命は2020年で女性87.74歳,男性81.64歳、

1935年(私が生まれる4年前)だと、それぞれ約50歳と47歳だった。

➡「20歳からを大人の人生と仮定すれば、人生はゆうに「倍増」したことになる」と著者は言う。

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4.世界のトップを切って高齢化が進む日本は、未来社会をどう構築するかという難問を抱えています。

しかし本書はそこに焦点を当てるものではなく、誰もがいずれは迎える老いをどう過ごすか?「老いに対する免疫をつけるサプリメントのような本」だと言います。

以下順不同で、

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(1)著者自身も80歳ごろから、ヨタヨタ・ヘロヘロする「ヨタヘロ期」が始まった。それは、「老いるショック」としてやってくる。何をするにも時間がかかる、何もしなくても忙しい、トイレで失敗する、うつになりやすい・・・・など。

(2)高齢期に失なうものとして、「人」「健康」「お金」「家」の4つの覚悟をしておくこと。

大事なのは、「金持ち」より「人持ち」でハッピーになろう!

なるべく予定を入れる、「トモ食い」を実践する。

(3) 「ピンピンコロリは幻想」、そのためにもある程度の経済力は大事で、「老人は財布を抱け」。

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(4)無理はしないこと、例えば、片づけは拒否していい、「この年齢で片付けなんて、体力も気力も消耗する」。

(5)自分でできないことが増える、他人に助けてもらわざるを得ない、そのためには、しんどいときは無理しないで、「介護され上手」になること、ユーモアも大切。

(6)「ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)」が大事と言われる。しかし著者は「ワーク・ライフ・ケア・バランス」の三位一体の人間社会を目指すべきだという。「ケア(子育て・介護・障がいを持つ人のサポート)」を別建てにとらえること。

(7)そして、「人は何歳になっても変わることができる、老年よ、大志を抱け!」

という元気のよい言葉で本書は終わります。

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5.老いを過ごすための「ころばぬ先の88の知恵」を教えてくれるので、一種のハウツー本と言えるでしょう。我々夫婦は普段はこういう本は読まないので、なるほどと読みました。老いを自覚しつつ生きていくにはノウハウも大事だということが分かりました。

1点だけ嫌味を言わせていただくと、「老年も大志を抱け」「私にはまだまだ夢があります」と言われても、少し引いてしまいます。

高齢者や介護者の暮らしの向上のために貢献された努力と実績は高く評価しますが、89歳でまだNPOの理事長を続けているのはどうか、次世代にバトンを渡すことも社会の活性化のためには大事ではないかなと皮肉を言いたくなります。

 

「西瓜を食べてた夏休み、ひまわり夕立せみの声」(吉田拓郎)

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  1. 先週は、だいたいは山暮らしを続けました。異例ずくめの東京オリンピックが始

まりましたが、ここにいると縁遠いです。田舎家には古い・小さいTVしかなく、五輪は見ません。

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 23日(金)の毎日新聞「論点」に京大前総長・ゴリラ研究の山極先生が、「本来スポ―ツとは個人やチームの力を競うもので、国の威信をかけるものではない。・・・「国のために」というのは時代錯誤だろうと思う」と書いておられ、共感しました。

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  1. 昔ほど長い距離は歩けませんが、周りを散歩はします。

 ここでは、知らない人同士でも出会えば挨拶をすることが多いです。釣り人に声を掛けられることもあります。「カブトムシを見つけたよ」と見せてくれた人もいました。

ただ、この時期の山の天気は変わりやすいです。

良く晴れた青空を眺めながらのんびり歩いていると、雷鳴が遠くから聞こえ、突然、空が暗くなり、雨がはげしく降ってきます。そして短時間でやんで、また晴れます。自然は気まぐれです。

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3.いま当地の最大の魅力は、取り立てのおいしい野菜です。JAのスーパーに行くと、生産者直売品がたくさん並んでいます。この時期、我が家の夕食は野菜中心になります。

畑仕事は、最近はもっぱら年下の友人と娘夫婦が主役ですが、これからの収穫が楽しみです。昨年は梅雨が長くて日照時間が足りず不出来でしたが、今年は大丈夫そうです。

いうまでもなく農作物は自然条件に左右される、人力ではどうにもならない面があります。

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4.庭では今年も蝉の脱皮と羽化を眺めました。

(1) 以下、「羽化」についてのウィキペディアの紹介です。

・晴れた日の夕方、終齢を迎えた幼虫は、羽化をおこなうべく、地上に出てきて周囲の樹などに登ってゆく。

・羽化のときは無防備で、この時にハチやアリなどに襲われる個体もいるため、周囲が明るいうちは羽化を始めない。

夕方地上に現れて日没後に羽化を始めるのは、夜の間に羽を伸ばし、敵の現れる朝までに飛翔できる状態にするためである。

・木の幹や葉の上に爪を立てたあと、背が割れて白い成虫が顔を出す。

成虫はまず上体が殻から出て、足を全部抜き出し、多くは腹で逆さ吊り状態にまでなる。その後、足が固まると、体を起こして腹部を抜き出し、足でぶら下がって翅を伸ばす。

・翌朝には外骨格が固まり、体色がついた成虫となるが、羽化後の成虫の性成熟には雄雌ともに日数を必要とする。

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(2)我が家のセミの「羽化」は、庭に天敵が少ないので安心なのか、日中でも見かけます。この日も午前中の出来事でした。時間のかかる、努力と根気の要る新たな命を生み出す営為です。

 こうして成虫になった蝉が地上で生きるのはせいぜい1か月程度。この間に交尾をして、雌は卵を産み、卵が孵化すると幼虫になって地中にもぐりこみ、3~17年の長い地中生活を送る。

 地上での1か月は、種を残すためでしょう。雄は鳴き声で雌に知らせます。交尾が終わると地上での短い一生は終わる。蝉には人間のような「老い」の時間はないでしょう。

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  1. 3年前の夏には、英国に住む娘が夏休みを取って孫を2人連れて一時帰国をし、田舎家で10日ほど過ごしました。

その時も庭で蝉の羽化があり、6歳だった孫がびっくりして見ていました。英国には蝉はあまりいないのでしょう。抜け殻をたくさん見つけて、並べて遊んでいました。

 そのことをブログに書きました。

京都の柳居子さんから、「空蝉は夏の季語ですね。句会に出て課題が空蝉でした」というコメントを頂きました。同じく京都の岡村さんからは、「蝉の空を並べている写真を見て男の子って同じことをするんだ。お孫さんはきっとこの日の事を思い出す日が来るんだろうなぁと思った」というコメントを頂きました。

「西瓜を食べてた夏休み、水まきしたっけ夏休み、ひまわり夕立せみの声」で終わる、吉田拓郎の「夏休み」という歌も教えて頂きました。

子供たちにとって今年の夏休みの思い出は、マスクをつけ、感染を避けてテレビ観戦

をしたオリンピックでしょうか? 

 

映画『いのちの停車場』公開記念オンライン講演会

  1. オンライン講演会が、コロナ禍の中で盛んになりました。

会場に足を運ばなくても、自宅のパソコンから視聴できるのが便利です。

このブログでも「ゴリラからの警告」など報告しました。

今回は青梅慶友病院のオンライン・イベントです。

 

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  1. 「映画『いのちの停車場』公開記念の講演会をやる」という案内が病院から届き、6月27日、田舎家で妻と2人パソコンに向かいました。

 吉永小百合主演で評判になっているぐらいの知識しかなく、なぜ慶友病院で「公開記念講演会」を実施するのか不思議でした。

 始まってすぐ、理由が分かりました。

(1)映画は、南杏子氏の同名の原作(2020年)をもとにしたもの。

(2)南氏の本名は渡辺由貴子といい、本職は医者(内科医),

(3)しかも青梅慶友病院に勤務している。

これなら同病院が彼女の講演会を企画して、理事長と対談するのは当然です。

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  1. ということで、まずは南杏子氏について。

(1)もともとは文系で、日本女子大卒業後、出版社などに勤務した。

(2)終末期医療への関心の原点は大学生のときの祖父の介護だった。夫の留学で暮らした英国で、40歳でも50歳でも大学に入り直す人がいることに目覚め、帰国後33歳で医者を志し、東海大学医学部に学士入学し、首席で卒業する。

(3)夫の仕事でスイスにも滞在、帰国後青梅慶友病院に勤務して15年目になる。

(4)かたわら、医療小説『サイレント・ブレス』で2016年55歳で小説家デビュー、すでに5作を刊行している。

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  1. 次に、青梅慶友病院について。

(1) 先代の理事長が「自分の親を安心して預けられる場所をつくる」ことを目指して1980年に開院した。「医療&終の棲家」のコンセプトで、終末期医療専門の施設である。

(2) 現在600人強の患者が入院しているが、平均年齢は90歳弱、ほとんどがここで人生の最期を迎える。いままでに8000人以上、最近は年200人強をここで見送る。病院での平均滞在期間は約4年。

(3) 毎日が楽しいと感じながら過ごしてもらい、「お陰様でいい最期でした」と遺族に言ってもらえるような病院を目指している。そのため、いろいろ企画を考える、たばこも酒もOKなど、かなりの自由を患者に許容する。

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5.以下は、渡辺医師(南杏子さん)の話と2代目理事長との対談から。

(1)処女作の題名「サイレント・ブレス」とは「静かさに満ちた日常の中で穏やかな終末期を迎えることをイメージする」言葉であり、それがこの病院の理念である。

(2)慶友病院に来て、患者への対応が他の病院と異なり、カルチャー・ショックを受けた。

・患者を病人というより、不自由ながら“人生の最後を過ごす人”として扱う。

・患者に対して全職員が“リスペクト(敬意)”を持つ、そのシステム作りが出来ている。

・家族との関係づくりを大事にする、

の3点である。

医療についても、来た当初は、つい、やり過ぎて失敗したが、ちょうどいい治療があるのだと教わった。検査しすぎない、薬漬けにしない、リハビリも適当に・・・など。

医師としてはもう戻れないということが分かる、ありのままを受け入れることが大事。

(3)これに対して、理事長は、ここは超高齢者が最晩年を過ごす場所であり、そのための終末期医療は、通常の「治す・良くする」医療とは異なることを強調していた。

良くなったかどうかをゴールにするのが普通だが、終末期医療は違う。残された家族に「いい旅立ちだった」という満足と良い思い出が残るのが病院としてのゴールだと思う。

――というような話で、たいへん勉強になりました。

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6.実は15年前、妻の母もここで最期を見送りました。

ぎりぎりまで我が家で妻が見ていたのですが、車椅子の暮らしの仕様にはなっておらず、入院してもらい、1年弱お世話になりました。96歳で亡くなりました。

 たびたび見舞いにいきましたが、気持ちよく過ごせる場所だという印象でした。東京の都心から少し遠いのが難点ですが、その代わり、緑の豊かなところにあります。

 周りに家族がいない場所でやはり寂しかったろうと思いますが、本人もそれなりに満足していたようで、病院には大変感謝しています。

ぎりぎりまで家で過ごし、滞在は比較的短期間でもありました。

そんなご縁があって、病院のOB会のメンバーにもなり、今回のイベントのお知らせを頂いたものです。