モーリシャスでの「日本文化イベント」

1.蓼科の夏を終えて帰京してから10日以上経ちましたが、体調はいまいち。

夏の疲れが出たのかもしれません。

発熱と咳がありコロナを心配しましたが、抗原検査キットによる検査では陰性でした。

年齢のせいもあって回復に時間がかかります。

それにしても、周りでもコロナ感染者は増えています。幸いに軽症なので安心していますが、誰もが罹りうる病気になったのだなと痛感します。

 

2.そんな訳で、東京ではいまだに、家に閉じこもっています。

蓼科では、山奥ということもあり、近くに住む人との行き来はあったので懐かしいです。東京ではなかなか人に会えません。

3.たまたま英国に住む次女一家が、モーリシャスまで旅行をしました。暇なので、送ってくれたメールや写真を何度も眺めました。

 

(1)この国、観光地、とくに新婚旅行に大人気の土地だそうです。昨年夏には、沖合で日本企業の大型貨物船が座礁し、重油が大量に流出するという事故で、日本でも大きく報道されました。

 

(2)1968年にイギリスから独立した英連邦加盟国の1つ。1992年に立憲君主制から共和国に移行し、大統領制になりました。

(3)アフリカ大陸の南東に浮かぶ小さな島で、面積は東京都ほど、人口130万人弱の小さな国です。しかし日本の大使館がちゃんとあります。

 

(4)大使館のホームページで大使が紹介します。

「しっかりしたコロナ対策のお陰もあり、観光客を受け入れはじめ、例年の半数程度まで戻ってきた」。

また、「モーリシャス多文化主義、英仏バイリンガルの国民、高い教育水準、アフリカで一番の民主主義国家、素晴らしい自然などの利点が日本でも徐々に理解され始めた。ワカシオの油流出事故後、モーリシャスとのビジネス関係を強化しようという日本企業も現れてきた」として、

「大使館として、政治・経済・文化全ての面で交流を深め、良好な2国間関係を構築すべく務めてきた」「日本の皆さんも是非“天国に一番近い島”を訪問して頂ければと願っています」と結んでいます。

4.しかし、日本からの直行便はなく、英国からでも直行で12時間かかります。

(1)よくもまあそんな大旅行をしたものだと驚いたところ、亭主の仕事に同行したとのことでした。亭主はピアノを弾き、作曲もします。

 

(2)大使館のHPによると、

 「この8月25日~9月6日、平井元喜氏によるピアノコンサートおよび中島通善氏の版木画展から構成される日本文化イベント「Sun Rises」が開催された」。

 

(3)ピアノリサイタルは都合4回開催された。初回は大統領府でのコンサート。

「大統領府との共催で、ルーパン大統領をはじめ、各国大使、国際機関代表なども出席した。氏はバッハやモーツァルトショパンなどのクラッシックの名曲に加え、今回がモーリシャス初演となる組曲「日本の情景」など自作品も演奏した。演奏後には、川口大使が自ら用意した日本料理や日本酒などが観客に振る舞われ、日本文化交流にふさわしい夕べとなりました」。

5.彼がどういう経緯で招かれて、遠路はるばる同国を訪れたのか、その経緯は知りません。しかし成功裡に終わったようで安心しました。両国の文化交流の何がしかのお役には立ったでしょうか。

次女は亭主の随行役にすぎませんが、交流を補佐する役割を多少は果たしたかもしれません。

 以上、世界は広いな、私の全く知らない国で日本人がそれなりに活動しているなとは感じました。

 それにしても、写真では誰もマスクをしていません。

「品格のある風景」とエリザベス女王逝去

  1. 田澤耕さんの『僕たちのバルセロナ』を取り上げたときに、京都に「バルセロナ文化センター」が出来たと書きました。

 早速岡村さんが行かれたそうで嬉しいことです。

 責任者のカタルーニャ出身の女性に会って話を聞いた。

 「公的なものでなく、支援者に恵まれて設立できたようです」

 「運営はなかなか厳しいようで・・・田澤さんは支援者であり良き理解者なんでしょう」

 とありました。京都とバルセロナ姉妹都市になって公的支援の対象になればいいな、と考えました。

 

2.『僕たちのバルセロナ』は7歳の悠君の語りを通して、彼が言葉や異文化を徐々に受け入れていく「物語」ですが、ブログでは「蓼科はもう秋で、ここにも「物語」がある」と書いたところ、田中美貴子さんから、

「それぞれの「物語」も良い思い出ですね。私は長女んちの「新米」もういただきました。美味しゅうございました・・・宇治の稲刈りは9月の末頃になりそうです」

と素敵なコメントを頂きました。

3.いま蓼科の田も日ごとに黄金色になっています。

先週の半ば,約2か月の滞在を終えて東京に引き上げました。

帰る直前、田の景色を素人写真に残しました。

日本のもっとも美しい眺めではないか、といつも感じます。

4.ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロが1989年35歳で発表した『日の名残り』は著者の最高傑作と言われます。

 

(1)本書は、語り手のスティーブンス(貴族の屋敷で執事を長年勤めた)が、休暇を貰って1956年の「現在」のイギリスの「西部地方」を旅しながら昔を回想する「物語」です。

(2) スティーブンスは、オックスフォード郊外の屋敷を出発して、「イギリスで最もすばらしい“田園風景(a view of the country side)”」を楽しみつつ、車で西に旅します。

 

5. 旅に出てすぐに、おそらく有名なコッツウォルドでしょうか、「うねりながらどこまでもつづくイギリスの田園風景」を眺めながら感慨を抱きます。

(1)「イギリスの風景がその最良の装いで立ち現れてくるとき、そこには、外国の風景が−―たとえ表面的にはどれほどドラマチックであろうとも―決してもちえない品格がある。そしてその品格が,見る者にひじょうに深い満足感を与えるのだ、と」

(2)それは「偉大さ」にもつながるが、「表面的なドラマやアクションのなさが、わが国の美しさを一味も二味も違うものにしているのだと思います。問題は、美しさのもつ落着きであり、慎ましさではありますまいか。イギリスの国土は、自分の美しさと偉大さをよく知っていて、大声で叫ぶ必要を認めません」。

 

(3) スティーブンスはこのように、イギリスの風景には「品格」がある、そしてそこがイギリス人の国民性ともつながるのではないか、と考えを拡げていきます。

 

6.しかし私は、稲が黄金色になる時期の日本の里山の眺めは、スティーブンスが感嘆するイギリスの田園風景に比べて、勝るとも劣らないのではないかと感じます。

それが国民性としての「品格」につながるかどうかは、スティーブンスほど自信はありませんが、つながるとよいなとは思います。

そして5歳で日本を離れたカズオ・イシグロの記憶に、果たしてこの日本の景色が刻まれていただろうかと考えます。

7.最後に、『日の名残り』の主人公が英国人は「品格」を大事にする国民だと理解する、その英国では、8日エリザベス2世が逝去しました。

米国ニューヨーク・タイムズは、「激動の時代における、優雅と安定の世界的な象徴」の逝去を悼みました。

英国に20年以上住む次女はメールで「大往生です。一つの時代の終わりを感じます」と書いてきました。

 

『僕たちのバルセロナ』、そして夏の終わり

  1. 前回紹介した『僕たちのバルセロナ』(田澤耕)の語り手は、6歳の長男悠君です。

(1) 日本の幼稚園から、いきなりバルセロナの小学校1年生になりました。

言葉は一切分かりません。

(2)いちばん困ったのが「トイレに行きたくたって「行きたい」って言えないんだよ。

悠君はほぼ限界まで我慢して、休み時間まで待って、「ズボンのおチンチンのあたりをおさえながら出て行く子がいる。「僕は「これだ!」って後について行った」。

(3)「最初にわかるようになったのは友だちの名前だ。・・・先生が名前を呼ぶとだれかが返事をする。そのたびにその子の顔をじっと見てれば、一週間もするとだいたい顔と名前がいっちするようになる。「はい」は「シー」だってこともわかった。」

 

(4)そして「バルセロナの小学校じゃ、みんな名前で出席とるんだ。「くん」も

「ちゃん」もなし。びっくりするのは、生徒が先生をよぶときもそうなんだよ。うちのクラスの女の先生のことをみんなは「マルセー」ってよんでる。「マルセー先生」じゃなくって。これは気に入ったね。日本で先生のことを、たとえば「チエコ」なんてよんだらおこられちゃうよね」。

 

(5) こんな風に悠君は、観察し、異文化を体験していきます。

2.田澤さんの博士号取得のためのバルセロナ大留学は、1993年40歳のとき。

(1)「あとがき」には、

「29歳で勤めていた銀行を辞めて教員に転職。就職難の中、やっと就けた専任教員の職を投げ打っての挑戦です。最低二年間。帰って来てからのポストの保証は一切なし。まさに背水の陣でした」。

 

(2) 実は私は1978年、39歳で2度目のNYに行き、半年後に妻と当時7歳と5歳の娘が来て一緒に住みました。NY郊外の静かな美しい住宅地でした。

 

(3) 私の場合は自分の意思でも「背水の陣」でもなく、かつて田澤さんも勤めた銀行の転勤ですから、その点は大いに異なります。

 ただ、ほぼ同年齢の2人の女の子は、悠君と同じく言葉も文化も分からない環境にいきなり放り込まれた訳です。

 悠君の異文化と格闘する日々を読みながら、「父親は仕事に忙しくてあまり構ってやれなかったけど、うちの娘たちも苦労しただろうな」と改めて40年以上昔を思い出しました。

  1. ところで、蓼科の夏もそろそろ終わりです。

(1)稲穂は色づき、蕎麦の花が盛りです。

昨日は、友人夫婦との畑の後始末を半分しました。夕方は友人宅に長女夫婦も入って6人が集まり、少し早い「収穫祭」の食事会でした。

当地もコロナは収束せず、地元に合わせて我々も外食は極力控えています。

(2)買い物は行きます。お盆の頃に比べて人出はずいぶん減りました。

高原のお菓子屋さんで、おいしいお菓子を買ってきました。

長女とほぼ同年配か、女性が一人でやっています。左の薬指に指輪はありません。

 

(3)店の名前は、「グリュスゴットgrussgott」。

どういう意味か訊いたところ、「ドイツ南部あたりの方言で、“こんにちは”の意味です」と教えてくれました。標準語なら「グーデンターク(直訳は「良い日」)」でしょうか。

オーストリー風アップルパイ」など、なかなかいけます。

ウィーンのポスターも飾ってあります。

 

(4)いろいろ質問したい気もしましたが(私はお店の人と喋るのが好きな方です)、不躾なのでそれ以上はやめて、引き上げました。

彼女も幼いときに、両親に連れられて、ウィーンででも過ごしたかもしれない。そこで異文化を知り、おいしいお菓子にも巡り合って、その味を信州の高原でも知ってもらおうと頑張っている・・・・。

 そんな「物語」を勝手に想像しました。

『僕たちのバルセロナ』(田澤耕、西田書店、2022)と岡田さん


1.今回は、法政大学名誉教授・田澤耕氏の著書『僕たちのバルセロナ』を取

り上げます。田澤氏は日本におけるカタルーニャ研究の第一人者です。

2002年に日本で初めて本格的な「カタルーニャ語辞典」を刊行しました。

一般向けの著書には、中公新書の『物語カタルーニャの歴史』『<辞書屋>列伝、言葉に憑かれた人びと』、岩波文庫の訳書数々など。

 

2.『僕たちのバルセロナ』は同氏が40歳になって博士号取得のために暮らした留学時代を、同行した6歳の長男の目を通して語る、とても楽しい回想録です。

刊行した西田書店は、私が編集の手伝いをしている雑誌「あとらす」の出版社で、親しい編集長が送ってくれました。

 

3.「あとらす」には友人が何人か参加して、その一人に岡田多喜男さんがいます。

彼は昔の職場の1年後輩で、20代のとき共にニューヨークの研修生だった頃からの

長い付き合いです。NYでスペイン語に目覚め、スペイン&南米に勤務しました。独学でカタルーニャ語も学び、「あとらす」には同国についての文章を毎号寄稿しています。

 

4.田澤氏は、私たち2人と同じ旧東京銀行出身です。1976年に入行、78 年にスペイン語の研修生としてマドリッド支店に派遣されたとき、岡田さんが上司でした。

研修する現地の大学を、日本人が多く住むマドリッドでなくバルセロナに選んだのは岡田さんだった由。

そして、本来はスペイン語研修生として派遣された田澤氏は、カタルーニャ語も学び始め、8年勤務した銀行を退職して研究者となる途を選び、辞書を作り、カタルーニャを日本に知らせる上で多大の貢献をしました。

6.岡田さんの受け売りによると、カタルーニャはスペインの自治州ですが、「かつては輝かしい独立国であり、独自の歴史、文化、言語を持つ民族であり、独立を希望する機運はかねてから強い・・・」。

 数年前には独立運動が激しく起きました。

「首都はバルセロナです。サグラダ・ファミリア教会を設計したガウディや、画家のダリ、ミロ、ピカソ、世界最高のチェリストとされるカザルス、三大テノールの一人カレーラスなどで知られる豊かな文化を誇る地域です」と紹介します。

「州都」ではなく「首都」と書くところが、この地を愛してやまない岡田さんらしいと思います。

7.田澤氏の著書『<辞書屋>列伝』は、「言海」「オックスフォード英語辞典」など辞書を編んだ人たちがどんな苦労と情熱を持って取り組んだかを取り上げた本です。同書の「終章」で、これらの偉大な先達とは格が違うと謙遜しつつも、自らを「辞書屋」と呼び、辞書を完成させる苦労と喜びを語ります。

 

 そして、Oさん(岡田さん)に触れて、自分がたいへん世話になった銀行の先輩であり、彼もまた言葉への高い関心を持って、社会人になってからスペイン語カタルーニャ語の習得に励んだことを評価し、「もう一人の辞書屋」という一節を設けて紹介しています。

 東京銀行という職場は、こういう文化を備えた良い職場だったなと改めて懐かしく思い出しました。

8.と書いてきて、この本の中身を取り上げる紙数はなくなりました。岡田さんの情報によると著者はいま病の床にあり、本書は本人としては遺作のつもりだそうです。ご回復を祈ります。

最後にバルセロナと京都との縁について触れます。両市は文化交流が盛んで、2019年京都に「バルセロナ文化センター」がオープンしました。

バルセロナ文化センター Centre Cultural Barcelona - CCB | Facebook

田澤氏は自著を30冊以上寄贈したそうです。

蓼科で畑と食の話

  1. お盆も終わり、帰省客の多くは都会に戻り、田舎はまた静かになりました。

お盆の時期は地元JA経営のスーパーも大混雑し、レジは長い行列でした。

いまは、畑の脇に咲くコスモスやひまわりの花を眺める人も少なくなりました。

2.無事に英国に帰った次女からメールがありました。

「子供達は(祖父母の)多大なる疲弊を代償に(笑)、大変楽しい思いをさせていただきました」。

 

帰国前に彼らだけで東京の留守宅に滞在したときの報告があり、家にある小さな仏壇のことに触れていました。

「(4歳の孫娘が)毎日のお参りにすっかりハマってしまい(「リン棒」のチーンと鳴る音が好き)、北沢に滞在中は欠かさずやっていたので、お線香とローソクの在庫がだいぶ減ったのでは。お手すきで補充をお願いします。意味も説明して聞かせたので、良い習慣と心得たと思います」とあります。

確かに英国に仏壇はないですね。

3.この時期、当地のスーパーは豊富な野菜が並び、田は稲が色づき、畑は収穫です。

昨日は長女夫婦と2回目の畑で、主にじゃがいも掘りをしました。

すでに秋の気配でとんぼが舞っています。

 

4.我が家は野菜中心の食生活です。取りたてのトマトや枝豆、人参、じゃがいもなどが食卓に並びます。

一日二食、天気の良い日は庭で頂きます。

 

食事をしながら、妻と二人、孫の思い出話に花が咲きます。

(1)10歳の孫息子は、そうめんを喜んで食べ、日本のじゃがいもが気に入ったようで、「感動的だ」と言って喜んで食べました。

(2)英国では父母ともに働いているので、どうしても手早く出来る食べ物が多くなるのではないでしょうか。

自分でも、チャーハンぐらい作れると言っていました。

(3)きゅうりの丸かじりが大好きで、朝食はいつも1本食べるのが英国仕込みの習慣。

和食も大好きで、ご飯に錦松梅をふりかけて食べるのは定番。

甘味のある飲み物は嫌いで、飲むのはもっぱら水です。

素朴な食べ物・飲み物が好きです。

(4) 英国人の普段の食事も、日本に比べれば質素でしょう。

日本のテレビ番組では、「どこそこの~~がおいしい」といった特集が多く、「うーん、このコクが何とも言えない」なんて感に堪えた表情で試食している場面がよく出てきますが、英国のテレビでまず見たことがない、と娘は言います。

 

(5) 但し彼も、現代っ子らしく「好き嫌い」はあります。

我々のこの年頃は、敗戦直後ですから、好き嫌いなんか言っている余裕はなく、出されたものは何でも食べました。いつも「頂きます」で始まり「ご馳走様」で終わりましたが、御馳走は少なかった。

今は「おいしいか」「おいしくないか」が食べる基準に大きいようです。

きゅうりの丸かじりも、彼や英国人にとっては「おいしい」食べ物なのでしょう。

 

  1. そんな日英の食べ物の比較論をしながら、妻と思い出話もしました。

何年も昔になりますが、蓼科で夏を過ごす友人の家にお邪魔してのお喋りの時間

に、「いままで食べた、いちばん記憶に残った食べ物は?」という問いが出て、4組8人の男女が懐かしい食事の思い出を語ったことがありました。

 私は英国滞在中に、夫婦で招かれてカプリ島に行ったときの、ルッコラ入りの素朴なスパゲッティかな、などと気障な発言をしました。

ルッコラは地中海原産の葉野菜ですが、当時まだ日本では知られていなくて、英国の食料店でも見かけないと妻が言っていました。

 

その妻が答える番になって、「この地の農家の手伝いをして半日農作業をしたあとに、彼らと一緒に食べたお握りほど「おいしい!」と思ったことはない」という回答でした。

 

広島原爆の日、平和祈念式典と畑の収穫

  1. 8月6日(土)、今年も妻と二人で、茅野市の平和祈念式典に参加しました。

いつものように、朝8時15分に1分間の黙とう、そのあと献花をしました。

(1) 長野県茅野市は、岡村さんの奥様の故郷です。岡村さんも奥様が元気だった頃は、夏は農作業の手伝いに、この地を訪れたそうです。

 

人口は約55千人。八ヶ岳白樺湖などの観光地を抱え、工業も盛んです。縄文遺跡が数多くあり、市の所蔵する「縄文のヴィーナス」「仮面の女神」の2つの土偶が国宝に指定されています。

(2) 私が住んでいる茅野市の豊平は、スケートの金メダリスト小平奈緒さんの、教育学者・故長田新の出身地でもあります。

長田氏は広島文理大教授のときに広島で被爆し、重傷を負いました。戦後、原爆を体験した少年少女たちの手記を集めた『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』を岩波書店から刊行、映画化もされました。

  1. 同市は、

(1) 1984年、「非核平和都市宣言」をし、昨年1月に発効した「核兵器禁止条約」への署名・批准を求める意見書を採択しました。

(2) ちなみに、全国1788自治体のうち、非核平和都市宣言をしている自治体は1657と大多数です。核兵器禁止条約への意見書を採択しているのは639自治体です。

 

(3) 広島・長崎に原爆が投下されてから50年の節目の1995年、市および市民からの募金を得て、公園内に「平和の塔」が建設されました。

翌96年、「塔」の前で第1回平和祈念式が行われ、今年で26回目を迎えました。

 

  1. 「平和祈念式典」は、コロナ感染が続く中でも中止されることなく、毎年行われてきました。

 

(1) ただし、規模は縮小し、来賓の挨拶は市長だけとなり、最後に参列者全員で木下航二作曲の「原爆許すまじ」を歌っていたのも中止となりました。

  「ふるさとの街焼かれ、身寄りの骨うめし焼土に、いまは白い花咲く、ああ許しまじ原爆を、三たび許すまじ原爆を、われらの街に♪」と歌う古い歌です。

 

(2) それでも毎年続けてこられたのは、市の支援に加えて、市民の立ち上げた実行委員会の皆さんの努力によるものです。

会長はずっと品川美好さんという方で、彼女も被爆者の一人かもしれません。

今回の短い挨拶は、「大国の横暴は許されない」と「若い人の協力が嬉しい」の2点でした。

 

(3) 毎年、広島・長崎の両市長からメッセージが送られます。

これを代読するのは、中高校生です。

今年は12人が順番に読み上げ、議事進行も市内の高校の生徒会長が担当しました。

 

4.この日の広島での式典では、小学6年生2人が「平和の誓い」を述べました。

――「・・・今度は私たちの番です。

・・・世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは行動していくことを誓います」。

 

  また、中学生が、式典に参加する各国の大使に平和メッセージを届け、自らの英語で語り掛ける活動の様子をテレビが報道していました。

品川会長の言う通り、若者の参加は嬉しいものです。

米国タイム誌が「2019年今年の人」に当時16歳の環境運動家グレタ・トゥンベリさんを選出したことを思い出しました。

同誌は、彼女を紹介し、選出した理由を説明する記事の中で、

「・・・時には、人々の考え方を変える最善のやり方は、子供の眼を通して世界を見ることだ」と述べていました。

  1. また、翌7日(日)には、これも例年ですが、畑の収穫をしました。

今年も長女夫婦と一緒です。じゃがいも、枝豆、トマトなど、素人仕事とはいえ、植え、育て、収穫したての作物を早速頂くのは嬉しいものです。

もちろんこれも次世代に任せつつあり、私の仕事は写真を撮るぐらいになりました。

私たちの「思い出トランプ」

  1. 私事ばかりのブログで恐縮ですが、孫2人は、8月1日英国に戻りました。

 最後の4日間は猛暑とコロナの中,東京に滞在。無事に帰国したようで安心しました。

 

  1. 蓼科では、山のような洗濯物を、近くのコインランドリーに行って、10分100円の機械に入れました。ここは、無料駐車場もあり、隣にカフェもあり、地方都市らしいゆとりのある場所です。妻は、障子の貼り替えもやりました。4歳のいたずらの後始末です。

しかし、東京も往復しましたが妻は、彼らが東京の留守宅をきれいに片づけて出発したのに感心し、「母親(自分のこと)のしつけが大事」と自慢していました。

  1. 入れ替わりに長女夫婦と猫1匹がやって来ました。平日はリモートで仕事をしているので、「そよ風」の到来です。

老人は疲れがとれるのに時間がかかります。それでも、里山を走り、田畑や山の姿を眺めると落ち着きます。

朝は庭で簡単な朝食をとり、鶯の鳴き声を聞き、しばし爽やかな風を受け止めます。

思い出話もします。

 

  1. トランプ遊びをたくさんやりました。

(1) 10歳の男の子は毎日勉強の時間があり、それが終わると一緒に室内遊戯の時間です。英国ではトランプ遊びはいまも人気があるようです。

 日本でも私が小さい頃はトランプでよく遊びました。いまはどうでしょうか?

(2) 2人でも遊べる「ジン・ラミー」というのを彼から教えてもらいました。なかなか面白いゲームです。

 

(3)インディアンポーカーもやりました。

・52枚のトランプ・カードをよく切って、1人が1枚ずつ取って自分のおでこにかざす。他人のカードは見えるが、自分のカードは見えない

 

・そこでお互いに相手のカードを見て自分のカードが勝てるかどうかを考えて、チップを出して賭けていくゲームです。

 

・相手の方が強いと思えばその時点で降りる。決められたチップの上限まで降りない場合は、開けて勝負する。強い方が勝ち、チップを総取りする。Aが最強で、2が最弱です。

(4) 我々と彼と3人でやった時に、私以外の2人のカードが両方とも「2」という状況がありました。

2より弱いカードはありませんから、私のカードが3以上であれば必ず勝つ、その確率はきわめて高い。

 

(5)そこで「これは勝つ」と確信して、最後まで下りずに勝負を続けたところ、誰も下りない。

➡結局3人全員が最後まで下りずに「勝負!」と皆が札をオープンし、私も自分のカードを確かめたところ、何とこれも「2」でした!

つまり、誰もが、自分以外のカードが「2」だと知り、「これなら勝てる」と最後まで強気になったものです。

 

(6)3人とも「2」とは、何たる偶然。カードはよく切った(シャッフルした)筈ですが、こんなこともあるのですね。

下の孫を寝かせ終わった娘も加わって、4人で大笑いしました。

 

(7)結局、「同じ数字のカードの強弱はABC順」というルールで、スペードの2をおでこにかざした妻の勝利となりました。

 

  1. 何ともバカバカしい思い出話です。

しかし、「思い出す」という人間の能力は、素晴らしいと思います。

 

大森荘蔵という哲学者は、『流れとよどみ―哲学断章』(1981)の「記憶について」と題する章で、

「「思い出す」ということは見たり聞いたり味わったりというような「知覚する」こととは根本的に別ものなのである。(略)(例えば)私は(もういなくなった)彼をじかに「思い出す」のである」

――と書いています。「思い出」は、生きる日々そのものではないでしょうか。

 

6.昨日は茅野市平和祈念式典に出席しましたが、今回は取り上げる紙数がなくなりました。