ksen2006-02-17

machidaさんのコメントですが、たしかに日本の財団やNPOが海外と連携するというのも
これから考えると面白いですね。マーリンさんのSAIの活動を日本でも支援しようという団体が出てきたら面白いし、日本財団は、アショカあたりと連携するのはどうでしょうか?


本日は『ラ・ロシュフーコー公爵伝説』(堀田善衛)に触れます。本書は、その前に書かれた『ミシェル城館の人』3部作が「エセー」の著者モンテーニュを取りあげているのに対して、同じくモラリストと言われた、モンテーニュより少し後代のラ・ロシュフーコーが主人公です。と同時に、16世紀〜17世紀のフランスの歴史――何とも混乱した、まだ統一国家とは言えない時期の、彼自身もどっぷりつかった、陰謀と戦乱と暴動と虐殺と不倫の恋が絶え間ない――を概観するには格好の著作です。


格言集(マキシム)」(白水社)の訳者・関根秀雄氏は解説で以下のように述べています。
・・「その内容その根本思想はあまりにも有名である。著者にとっては美徳は存在しないのである。それはいかにそれらしく見えても、よく目をこらして見ると、いつも自愛に従っている。利己主義や欲得・打算に根ざしている。これはラ・ロシュフーコーにおいて単なる観念ではない。かれが半生の経験によって得た実感である・・・」
・ ・「だが同時に、かれのこの人間ぎらいは、評判ほどに絶対的なものでも深刻なものでもない」・・・・・

堀田氏の著作は、題辞エピグラフ)に前回ご紹介した「太陽も死もじっと見詰めることは出来ない(M26)」を掲げ、題辞も入れて本書で4回引用しています。この言葉へのこだわりが伺われます。
ところがラ・ロシュフーコー自身は、自らの著書の題辞には以下の格言を選んでいます・・・・

「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」。

この言葉に関根氏は「本書の根本思想を要約したもの」と注をつけています。


このあたりを考えていくと、なかなか面白いのです。
というのも、私は「ソーシャル・アントレプレナー」という存在を考えるにあたって、その動機・モティべーションに関心を持っているからです。人はなぜ、ソーシャル・アントレプレナーになろうとするのか?なぜフィランソロピストになるのか?企業のCSR(社会責任)の本当の動機は何なのか?下品な憶測で申し訳ありませんが、ビル・ゲイツノーベル平和賞でも欲しいのでしょうか?(私個人としては、彼はそんなことに興味があるようには見えませんが・・)アリス・テッパー・マーリンに「あなたのDeep Truth(本当の本音)」を話してほしいとしつこく頼んだのも、そこにあります。

その点に関して、上述した関根氏も言うように、ラ・ロシュフーコーの人間不信は、言葉ほど深刻な印象を与えません。自らの体験・経験に依るものであるにしても、それを貴族らしい、醒めた目でちょっと気取って口にしてみた・・・・そんな印象をうけます。それが一種の「エスプリ」だと言いたげな・・・。題辞に選んだマキシムにしても、「ほとんどの場合」という表現(原文を知らないのですが、英語だと“in most cases”でしょうか)に、むしろラ・ロシュフーコーの願いのようなものが感じられます。(因みに「ほとんどの場合」というのは堀田訳で関根訳は「もっともしばしば」とあります)。


しかし、私自身の好みを言えば、以下のような格言の方に魅力を感じます。

「人は決して自分が思うほど幸福でも不幸でもない(M49)」、あるいは
「みずから老人たることを知る者は少ない(M423)」

この距離感がいいですね。他人と自分との距離をいかに縮められるか?そのためにはまず自分をなるべく遠くから見ようと努力すること(簡単なことではありませんが)。
ソーシャル・アントレプレナーが無意識に考えているのもそんなことではないでしょうか?