Mayさんコメントと情報有り難うございます。「赤瀬川原平の名画探検―フェルメールの眼」(講談社)、早速借りてきました。うちの大学図書館にもけっこう面白い本を置いてあるのですね。36作品すべての写真が載っていてまさに眺める絵本ですね。どういう順番で取りあげたのでしょうか、第1番が「赤い帽子の少女」(ナショナルギャラリー)でした。

それにしても隠れたフェルメール・ファンが多いようです。前回ふれた息子の嫁からのメールによると、学生の頃、亡くなった母上と一緒に額賀さんという先生に絵を習っていたそうですが先生の影響で、みんなフェルメールが好きになったそうです。因みに、この額賀さんという人は3人兄弟で、末弟が「ひらまつ」という広尾にある有名なフランス料理店のオーナー・シェフ。数年前にパリに出て、いきなりミシュランの1つ星を取って話題になりました。


閑話休題。ブログについて続けますと、今週号の「ニューズウィーク」日本版が「ブログは新聞を殺すのか」という特集を組んでいます。
今回は、まずは「ウェブ進化論」の梅田氏が、ブログのもたらす「総表現社会」について書いていることをご紹介します。


1. 「ネットやブログを巡る論説の多くに、不特定多数無限大の参加は衆愚になるはずだという根強い考え方がある」

2. これに対して、氏は、「エリート対大衆」という二層構造ではなく、三層からなる構造を考えたらどうかと問題提起します。すなわち、プロの物書き(仮に1万人いると推定)と母体=総人口1億人との間に「総表現社会参加者」とも呼ぶべき層をイメージしてはどうか、と問いかけます。この層は、10人に1人でも20人に1人でもいいが、「これが、ブログを序章とする総表現社会の到来によって浮き上がってくる新しい層である」。

3. その上で氏はこう言います・・・「不特定多数無限大の参加は衆愚を招く」と根強く考える人たちに、「百歩譲って1億人なら衆愚かもしれないけれど、1000万人だったらどうでしょう」と、私は問いかけてみたいのである。(P.149)


これ、なかなか面白い指摘だと、私は感じました。プロの物書きにはなれないけど、まだまだ才能が埋もれている人たち(いわば、声なき声)がいて、その人たちに表現のツールを与える・・・そこにブログの意義があるということでしょう。

4月から始まる3年生の「現代社会研究演習」(4年生で卒業論文を書くことにつながっていきます)で、こんな風なブログ論を語ってみようかと考えているところです。