(続)なぜいまリンカーンか:コメントへのお礼とともに

1. 今回はコメントへのお礼が遅れているので
あまり間隔をおかず、
20日付&24日付ブログにコメント頂いた、我善坊さん、さわやかNさん、
Northさん、十字峡さんへのお礼と返信にさせて頂きます。


とくに後半はいやはや、たいへん長く(それでも舌足らずに)・硬く
なりますので、関心のない方は今回も無視してください。


2. まず、24日付十字峡さんコメント
“たまには柔らかい話・・”大歓迎です。
どうも私の報告が格好つけて硬い話になってしまう点、反省して
おります。
性格はなかなか変えられないので是非、時々軌道修正してください。

祇園お茶屋「かとう」がお馴染みとは、さすが、格好いいな
と感心します。
「話のタネ」に、機会があればお伴したいものです。

そう言えば、「祇園かとう」でグーグル検索したところ十字峡さんの
ブログ
に書かれた、舞妓さんとボーリングをした話を発見しました。


3.20日Northさんコメント、映画の話、
興味深く拝読しました。

(1)「ハーブ&ドロシー」という映画、面白そうですね。
たまたま数日前に、娘夫婦からこの映画を聞いたばかりでした。
アメリカを舞台にした日本人の女性監督の作品とは知りませんでした。


(2)たしかに、「ANPO」も「はんなり」も女性監督ですね。
それと荻上直子という人も「かもめ食堂「めがね」などいい映画をつくります。
最近作は「トイレット」。舞台はやはりアメリカで日本人は
「ばあちゃん」と呼ばれる、もたいまさこ演じる
お婆さんが1人だけ登場します。


(3)しかもこの4人の女性監督に共通しているのは、
何れも、異国或いは自分がいま住んでいる場所とは違う国を題材に
取り上げているという点で、ここが面白い。
日本人が日本以外に興味をもち、外国人(ANPOのリンダ・ホーグランド)
あるいは日本に住んでいない日本人(はんなりの曽原さん)が
日本に興味をもつ。

これも女性だからでしょうか。

(4)「ANPO」については、先を急ぐので残念ながら割愛します。

3. ということで、評判悪いと思うけど、硬い話題に戻って
「再び、いまなぜリンカーンか?」
以下、20日付の我善坊さんとNさんのコメントを拝読してのフォローです。


4. まず、リンカーンについて“講談社の「偉人伝」で育った我々・・・”
という前置きはまさにご指摘の通りですね。


おそらく私をはじめ多くの日本人が、ご指摘の通り「偉人伝」での
リンカーン理解から出発し、そこで終っているのではないか?
もういちど成人になった目で彼を見直す意味があるのではないか。
これが「なぜ、いま?」への答え・その1です。


5. ここで我善坊さんの、明治日本の大久保利通についてのコメント、
卓見だと思うのですが、私自身は知識が不足しております。
たしかに彼はもっと評価されてよいように思いますが、
おそらく政治・政治家の仕事というのは本来、
理念に沿って日々の職務を事務的にこなし、誰にでも真似できるような
システムを作っていくという地味な仕事であるべきで、
これはどうも日本人にはあまり受けない、ということもあるでしょうか。

何せ、坂本龍馬の大好きな国民ですから。


リンカーンの場合も、たまたま、戦争という極端で悲惨な仕事だったが、
しかし基本的な姿勢は、自らの信念を外れることなく、日々の仕事、
与えられた職務と責任を地味に・着実に・巧みに(国民の支持やら受けやら
人気やらを気にせず)処理していくという政治家としての能力が優れて
いた訳で、これが「なぜ、いま?」の答え・その2です。
(因みに、我善坊さんご指摘の「反リンカーン」はまさにそうで、
当時も、とくに戦争初期、
政府にも議会にも国民にもリンカーンを憎み・批判する人の方が多かった
のではないでしょうか。
だからこそ暗殺もされた訳ですが)


6. ここで、「大義」(リンカーンの言葉は「コーズ、cause」)
に触れます。


Nさんの言うように、「人の命を超える大義は存在するか。個人の物理的な
命より大事な大義はあるのか。さらには個人を越えて集団的な大義
あるのか?」
という大きな問題をどう考えるか?
そのための格好の教材がリンカーンの政治にある、というのが
「なぜ、いま?」の答え・その3になります。

ここで、
・我善坊さんの言う
アメリカは日本のような「民族国家」ではないから「国家のunityには
普通の国家以上に神経を使う」


・あるいはNさんの言う
「日本は集団の中に大義があり、それは共同体の維持、個人の
物理的な命に還元されるのではないか」
「それは、異端の排除や弱い者いじめにつながるのではないか」


以上2つのご指摘は、
同じような認識に立っているように私は理解しましたが、
如何でしょうか。

そして、一面ではその通りと思いますが、他方で私は、
日本のような「民族国家」であっても「大義
(Nさんの用語を使えば「集団の外にある大義」)
は必要であろうと考えるものです。
とくにいまの日本は、国家としての規模が小さくなりつつある。
そこでは、世代間・男女間・階層間・地域間・民族間(日本にも広義の
少数民族」はいる。例えば、まさに基地問題の沖縄)の
「分配」と「公平」が最大の問題であり、
そういうときまさに「大義」によって、我々のそれぞれの利害を超えて
政治が行われることに国民が納得する、という力学と哲学が必要では
ないだろうか。


リンカーンが演説で訴えたような「(ここでいう=that)大義への一層の献身」
(increased devotion to that cause)とまでは言わないが、


(ちなみに、ケネディの就任演説の有名なせりふ「国が皆さんのために
何ができるかではなく、1人1人が国のために何ができるのか
(Ask not what your country can do for you, ask
what you can do for your country.)」という呼びかけは
この言葉を意識しているように思います)


少なくとも「一層のエゴの抑制」を、「弱者に対して1人1人が手を
差し伸べること」を呼び掛ける・・・

そんな「日本のリンカーン」が必要ではないか?これが「なぜいま?」
の答え・その4です。

いまこの国では
「国は(政府は)何をしてくれるのか」という要求と

「何をしてくれないか」
「何をしているのか」
という不満・批判の声が政治の世界にも巷にも
メディアにも溢れかえっています。

「私たちが国のために何ができるのか?何をすべきなのか?」
という問いかけ・声は誰からもあまり聞いたことがありません。
(もっとも、「サイレント・マジョリティ」は、こんな風に
ブログで饒舌にならずに、黙ってやるべき
ことをやっているのかもしれませんが・・・)

本当にこれでいいのか?
それがいまリンカーンを考えたい理由です。


7. 最後に、(ここからは補足・蛇足です。読んで頂く必要は
あまりありませんが)

リンカーンの「一層の献身」と言う言葉が出てくる、あの有名な
ゲティスバーグ演説のこの部分を岩波文庫の「リンカーン演説集」から引用し、
ついでに「大義」という言葉について触れておきます。


(1) まず岩波訳の演説です(あまりいい訳とは思いませんが)

・・・ここで身を捧げるべきは、むしろわれわれ自身であります ――
それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた
偉大な主義(コーズ)に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが
一層の献身を決意するため、(略)この国家をして新しく自由の誕生を
なさしめるため、そして人民の人民による、人民のための、
政治を地上から絶滅させない、ためであります・・・・・



(2) このように、岩波訳では「大義」と言う言葉は使わず、
「主義」と訳し、「コーズ」というもとのリンカーンの言葉をルビに
ふっています。

これは私の推測ですが、「大義」だと、戦争中の「悠久の大義
と言う言葉を思い出して、抵抗を感じる人も
いるだろう。本書の初版が1967年、当時の訳者はまだ
大義」と訳すのに抵抗を感じたからではないか。


私個人はさほど違和感を覚えませんが、
気にする方は「国家理念」とでも言い換えた方がよいかもしれません。