JFK 暗殺から50年と夫々の青春

皆様コメント有難うございます。少し補足したくなりましたので、JFK暗殺に関連して・その2です。

1.まずarz2beeさんの「貴重な経験を何か形に〜」というのはまことに光栄なお言葉です。
ただ、残念ながら私自身にそんな能力はとても無いということが1つ。もう1つは私だけでなく、皆様夫々が「貴重な青春の思い出・経験」を持っているだろうと思う気持が強いです。
もちろんarz2beeさんご自身も当然にその1人に入る訳ですし、「青春の思い出」は誰にもあるでしょう。
たまたま今回ブログに書いた50年前のJFK暗殺の悲劇であれば、当時おそらく10代後半か20代だった方が、
私のブログに触発されて自らの青春を思い出してそれを紡いで下さったとすれば私とすれば、それだけで十分書いてよかったと思い、本望です。
ブログへの十字峡さんのコメント(衛星放送や関連して読んだ本)や革製の「ウォーレン・レポート」を貰ったという我善坊さんもまさにその例証ですし、FBに3人の方がやはり「思い出」−「夫人のピンクのスカートに、大統領の血痕が生々しく残っていて」、留学の前年に聞いて涙した、そして「ニュースが流れた時(NYの)教会でアメリカの国民と泣き叫んで一夜を過ごした」商社マンの青春―を書いてくれました。


2. 次に、我善坊さん、柳居子さんの、大統領としての評価について。
正直言って、私はそれほど勉強していないので、評価について意見はありません。
日本の政治家についても歴史上の人物でも私に言えるのは、せいぜい好き嫌いぐらいです。トルーマンアメリカでの評価が高いようですが、原爆で当然に大嫌いです。
アイゼンハワーの離任演説の中味も知りませんでした。相変わらずの勉強ぶりに感服いたします)

ただこの点では(ご指摘にもあるように)、アイゼンハワークリントンが2期8年を全うしたのに、JFKはたった3年だったという点を考慮する必要はあるでしょう。
もちろんあと5年やったら大きな業績を上げたかどうかは分からない。しかしタイム誌も言うように、「歴代の中でJFKだけが唯一“何を成し遂げたか”ではなく“(生きていたら)こういう大統領になったかもしれない”で評価される(less for what was than what might have been)存在なのでしょう。
だからこそ、今も国民の評価は高く、ワシントン、リンカーン、2人のローズベルトと並んで或いは時に彼らを超えて高くランクされる、とタイム誌は語ります。


3. もちろん、1963年の悲劇が影響していることは前回も触れた通りです。

「この地球でおそらく最も、強力で、栄光に満ちて、富裕で、カリスマ的魅力にあふれた人間が、アメリカ(という、当時は同じように世界で最も,強力で、栄光に満ちて、豊かで、ソフトパワーもある国)で、白昼堂々、衆人環視の前で暗殺された事実、しかも犯人は、けちな自称共産主義者の単独犯行だ、という発表は、多くのアメリカ人にとって何とも受け入れがたい気持だったでしょう。
最近になっても、事件現場の、素人による新たな写真が発見されて、それが如何に残酷な出来事だったかを改めて知らせています。
タイム誌編集長は「フィルムに撮られた最も残酷で暴力的なシーン」として、「その模様を詳しく書く勇気が私にはない、しかしこのぐらいは書かざるを得ない」として

・・・(大勢のダラス市民が歓迎のため、ゆっくりと進むオープンカーの両側に群れをなし)大統領は微笑み、手を振った。
前の席に座るコナリー・テキサス州知事夫人が、後ろの席を振り向いて「大統領、ダラス市民があなたを愛していないなんて言わせませんよ」と語りかけた、
その一瞬後、大統領は硬直し、最初の弾丸を受けた喉を押さえようとした。続いて(これが致命傷になったが)2発目が彼の頭の右に命中し、頭蓋の一部がはじき飛ばされ、血しぶきがジャクリ―ヌ夫人のピンクのスーツを染めた。
そして彼女は、まだ動いている車の後部座席から乗り出して、後部トランクの上に乗った。何のために?飛び散った夫の頭蓋の破片を拾い集めようと絶望的な努力をするために・・・・・
(この模様は、前回紹介したYoutubeで見ることが出来ます)

これ以上は私も触れる勇気がありませんが、以上だけでも、いかに悲惨な出来事だったか、JFK本人だけでなくジャクリ―ヌ夫人にとってもいかに衝撃だったかが想像できると思います。
大分あとになって、彼女は、「私はアメリカという国が好きでない」と語ったことがあるそうです。

4. 他方で、駐日大使のキャロライン・ケネディ氏は、まだ5歳であり現場にいた訳でもなく、そのショックの深さ・大きさは母親とは多少違ったでしょう。
しかし、父親をこのような惨劇で亡くした「思い出」は消えることはないのではないか。
しかも何度も言うように、映像や報道は50年後の今もテレビに新聞に溢れています。

ケネディ大使について私は、日本の新聞の報道以上のことは知りませんが、20歳の時に叔父のエドワード・ケネディと一緒に日本を訪れ、広島の原爆資料館にも寄った、以来日本に強い関心を持つようになったという記事を読んで、ああこの人はきっと、(自らのだけではなく、或いは自ら経験したからこそ)他人の悲劇に対する想像力を持った人なのだろうな、と感じました。

(これは蛇足ですが、私の姪が先月、偶然ケネディ大使にお会いしたそうです。明治神宮でのお茶会に出たところ、お忍びで大使が(5人のお伴と共に)飛びこみで現れて、彼女がお茶を立てて差し上げる役目を果たしたそうです。目立たない・地味な人という印象だったと)


5. JFKのような人物かつ悲劇の場合はこのように、残された人々が今も彼の死を忘れることは出来ません。それがいかに辛いことであっても逃げることが出来ません。映像を見、記事を読み、(人によっては青春の思い出とともに)想起せざるを得ません。


しかし、JFKのような場合だけでなく、全ての死に対して生きている我々がすべきことは、忘れないこと・思い出し続けること、「死者にこの場に参加してもらう」ことが大事ではないか、それが最大の供養ではないか、と思う者です。


まったく話の次元が異なりますが、この12月喪中の挨拶状を頂いた中に11月に、逆縁、つまりお子さんを先に亡くしたのでという挨拶がありました。9月に一緒に酒を酌み交わしたばかりでした。

こういう出来事に私ごときが、何も言うべき言葉が無い、何を言っても所詮他人の無責任な声けになるだろうことは、承知しているつもりです。
しかしやはり何か言わざるを得ない気持もあり、こんな返事を出しました。

「辛いだろうが、思い出すこと、いつまでも忘れないこと、故人の明るく一生懸命に生きた日々の姿勢や言動を残された人々で語り合うこと(もちろん欠点や失敗や悪口を含めて)、それが生き残った者の死者に対してしてあげられる唯一のことではないだろうか」
と伝えたのですが、
おそろしく僭越だったかもしれません。