「制度的な人種差別(systemic racism)」―1968年と2020年。

1. 5月末に起きたミネアポリスでの黒人死亡事件は、アメリカ全土のデモに始まり、世界的な人種差別への抗議に発展しました。

米タイム誌は2週続けて特集記事を組み、英国エコノミスト誌も連続して取り上げました。エコノミストの「抗議の力とジョージ・フロイドの遺産」と題する論説は、

(1)抗議のデモがアメリカ全土150の都市に拡がり、1968年のキング牧師暗殺事件以来の規模となった、

(2)抗議は世界大に拡がり、自国の忌まわしい「制度的な人種差別」の歴史を見直し、修正しようとする動きが欧州その他でもみられた、

(3)その殆どが1968年と異なり、平和裡に行われた、

と述べて、この動きが未来への改革の入り口であってほしいと期待を表明しています。

他方でタイム誌は、「遅すぎた気付き(Overdue awakening)」と題して、奴隷制廃止後も、公民権法制定後も「差別」が続いているアメリカの現状への怒りと悲しみが中心になっています。

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2.エコノミスト誌の上記論説は、以下のように始まります。

―――「その年」のアメリカで、10万人がウィルスで死亡した。

宇宙船の打ち上げが、アメリカの科学技術を輝かせた。

全土で、人種差別の「不正義」に抗議する大規模なデモが起きた。

そして、11月には有権者は、一方で「法と秩序」を訴える共和党候補者と、他方で魅力に欠ける民主党候補者の、どちらかを選ばねばならない。―――

そして、こう続けます。――「その年」とは1968年であり、2020年である。

ただし、1968年には、ウィルスはインフルエンザだったし、宇宙船はアポロ7号だった。候補者はトランプとバイデンではなく、ニクソンと、現職副大統領のハンフリーだった。

しかし、「不正義」だけは52年前も今も変わらず、深刻な事態を招いている。

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3.この文章を読んで、以下は老人の思い出話です。

(1)私事ながら、私が初めてアメリカに暮らしたのは、1966年末から69年までです。最初は、テキサス州のダラスで暮らし、そのあとニューヨークに移りました。

(2)ダラスは、1963年に当時のケネディ大統領(JFK)が暗殺された場所で知られるようになりましたが、石油で栄えた富裕層の多い街です。

陽気で親切な白人が多く、「サザン・ホスピタリティ(南部のおもてなしの心)」で知られますが、貧富の差は激しく、とくに黒人は「見えない存在」でした。

 アメリカでは1964年、JFKの意志を継いだジョンソン大統領時に公民権法が成立しましたが、私が住んだ頃も人種差別は厳しく残っていました。

 黒人はお断りというレストランが目につき(店の前に「お客を断る権利があります」という看板があって、「黒人お断りの意味だ」と教えてくれました)、郊外の住宅地とダウンタウンを往復するバスは、白人と黒人の席が分かれており、黒人は後ろ。「君は前に座っていいんだよ」とわざわざ言われたものでした。

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4.そんな南部から1967年ニューヨークに移動すると、黒人の存在ははるかに大きく目立ちました。翌1968年はなかでも印象に残る年でした。ニューヨークは荒れた雰囲気で、ベトナム戦争に関するニュースが新聞に報じられない日はなかった。

 1月末には北ベトナム軍とベトコンによる大攻勢が始まった。

3月には、ベトナム戦でのアメリカ兵士の死傷者は19万人を越え、コロンビア大学を始め各地で反戦デモが頻発し、徴兵忌避の動きもあった。

4月には、テネシー州メンフィスでキング牧師が暗殺された。これを機に、アトランタデトロイトなど各地で暴動が起こり、一部では軍が出動し、戒厳令が敷かれ、多数の死者が出た。

 6月には、JFKの弟ローバート・ケネディ(RK)がロサンゼルスのホテルで射殺された。

ニューヨーク・タイムズは「アメリカは病んでいる」と社説で叫んだ・・・。

 RKの射殺は、カルフォルニア予備選直後のパーティ会場で、放映していたTVカメラの目の前で起きた。

彼は現職ジョンソンの次期不出馬声明を受けて、ベトナム戦争の即時停止を訴えて大統領選への出馬を表明。大票田である加州の予備選で勝利が確定し、民主党候補をほぼ確実にしたその夜、殺されたのである。ホテルの一室に待ちかまえる支持者に向かって勝利宣言をし、Vサインを上げて壇上を離れた直後だった。

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5. ロバート・ケネディキング牧師とは、生前親しい友人でした。

キング牧師は、4月3日、テネシー州メンフィスで演説。「私には約束された国が見える。私自身は皆さんとともに到着することは出来ないかもしれないが・・・・」。

 そう語った翌日、暗殺される。同日RKはインディアナ州インディアナポリスの黒人スラム街で選挙演説が予定されていた。危険だからと周りが中止を進言したが、聞き入れずに強行し、「とても悲しい知らせがあります。皆さん、全国民のみならず、平和を愛する世界中の人々にとってです」と切り出し、選挙演説はいっさい無く、自分の言葉で心をこめて語りかけた。

 記念碑によると、「キング牧師の意志を継ごうと語り、分裂・憎しみ・暴力ではなく、愛と知恵、思いやり、そして正義を訴えた」。(You tube(日本語字幕付き)で彼の肉声を聞くことができます)。

https://www.youtube.com/watch?v=ZkHgyAJpltI

その夜、キング牧師暗殺の報道が全米に流れると,110の都市で暴動が起き、39人死亡、2500人が重軽傷。「しかしRKの演説のお陰で、インディアポリスだけは静かだった」。

 キング牧師の遺体は、故郷アトランタに運ばれ、親友の黒人市民運動家ジョン・ルイス(現民主党下院議員)は、駆け付けたRKとエセル夫人を午前1時、葬儀の前に教会に案内した。遺体の前でルイスは、「しかし、私たちにはまだロバート・ケネディがいるじゃないか」と必死に自分に言い聞かせた。

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6. しかし、そうはならなかった。6月4日銃弾に倒れたRKは2日後に亡くなった。妊娠中のエセル夫人は26時間最後まで、病院のベッドを離れることがなかった。

実は20代の私はこのとき、ニューヨークの自宅アパートの居間に座ってテレビの実況を見ていたのです。それは何とも衝撃的な瞬間でした。

詮無いことですが、彼があのとき生きていたらと、52年経ったいまも思いました。

ニクソンは、民主党候補に選ばれたハンフリーに勝ちましたが、大接戦でした。ロバート・ケネディなら勝利して、彼が大統領になったことでしょう。

そうしたら、この「差別と分断」のアメリカ社会は相当変わっていたのではないか。

 人間の歴史は、果たされなかった夢の、限りない悲しい物語のように思われます。