京都の秋と竹内栖鳳展など


1.1週間ぶりの更新です。相変わらず自己満足の発信を続けています。
この間、京都に3泊しましたので、そのことを記録しておきます。

紅葉シーズンで京都は人出が多く、どこも賑わっていました。
23日に会があって御所の北から仲間3人で京都ホテル・オークラまでタクシーに乗り、普段から5,6分で行くところですが、30分以上かかり途中で降りて歩いて、時間に間に合いました。

それでも、翌日朝早く、宿泊先の近くの京都御苑を散歩しましたが、この時間なら人も少なく静かで、紅葉も盛りでした。皇宮警察のお巡りさんにいろいろ質問したところ丁寧に説明してくれました。
ご存知の方も多いでしょうが、私はあらためて知りました。
仙洞御所(せんとうごしょ)は、退位した天皇上皇法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処のこと。大宮御所は皇太后の御所。
京都御所のすぐ南東にあり、御所自体はいまはお住いとしては使えないので、大宮御所あとを改装していま天皇皇后が行幸啓されるとここにお泊りになるそうです。


2.23日の祝日は夕方まで時間があったので、まず旧知のお店に行って散髪をしてもらいました。本来この日はお休みなのですが、夕方「冷泉家時雨亭文庫祝賀会」という賑やかな会に出席することを話したら、老人が少しは見苦しくないようにと休日にも仕事をしてくれました。こういう個人的な無理が利くのも京都の余裕かな、東京では考えられないな、と妙に京都の肩を持ちたくなりました。
おまけにお店で招待券も頂いたので、岡崎の市美術館で「竹内栖鳳展」を見てきました。
もちろん朝から来場者は多かったですが、それでも東京に比べればゆっくり見ることが出来ます。
前にもブログに書いたことがあるのですが、美術館・博物館の特別展を東京で見るのは大混雑ですが、この点、京都で見るのはまだ余裕があります。
ところで以下、全くの素人流の見物方法ですが
こういう混んでいる美術館では、どこもそうですが、会場の入り口付近がいちばん行列になっています。
私のような高齢者はここで時間を掛けてしまうとくたびれて後半を見るのがやや疎かになってしまいます。そこで私はいつも奥から、つまり後半の作品から逆に見て、若い時の作品に戻ってくるようにします。そうやってまず全部を見通したうえで、幾つかの私の好みの絵の前で再度時間を掛けて立ち止まることにしています。

3.22日の夕食は、私が京都に来る機会が少ないので勝手に「早めの忘年会」と称して友人たちと一緒でした。うち2人は生粋の京都人で、1人は神戸在住ですが京都が好きでしょっちゅう上洛します。
最後の1人Hさんは、最近この地に住み着いた「新・京都人」で私の旧職場の同期生ですが、上記の京都に詳しいお3方に紹介するという狙いもありました。


Hさんは奥さんともどもフランス語の達人で、パリに通算30年住み、このほど帰国して、何の地縁人縁もない京都を終の棲家に選んだというご夫婦です。
夫人の方はすでに4、5年前から帰国して京都に住みつき、今では地元の町内会の会長までしている、というから驚きです。
おまけに京都という土地柄、いろいろな行事があって会長さん、まことに多忙だそうです。

ご夫婦とも東京出身で、夫の方は帰国してしばらく東京で仕事を続けていましたがこのほど辞めて京都に移住しました。

羨ましい話ですが、30年も海外に住んでいると、「日本のどこに住んでもいい。それなら京都だ」という判断になったのでしょう。
別の友人から聞いた話ですが、彼の友人のフランス人夫妻が引退して、母国の家を処分してやはり京都に移住してしまったそうです。

Hさん夫婦の場合も、そういう外国人の発想・行動パターンに似ているのでしょう。
自らの「ふるさと」を持たないというか、世界のどこでも自分の「ふるさと」を見つけるというか、アメリカ人の行動にもっとも多く見られるように思いますが、我々土着の日本人にはなかなか少ないでしょうね。


もちろん、そこには受け入れる「京都」の土地柄や魅力という要素もある訳で、これもブログで時々触れますが、京都は日本の中ではやや異質なぐらい「オープン」な文化を持っているという気がします。


4.他方で、神戸からたびたび京都を訪れるTさんも、半分ぐらい京都人でしょうか。

当然ながら、「竹内栖鳳展」を見に訪れて、「絵になる最初」が気に入った由。
絵葉書を写真に撮ってここに載せましたが、たしかに、もともと人物画のきわめて少ない栖鳳の作品の中で珍しく目につきます。

栖鳳は、あまり人間に興味が無かったのでしょうか。代表作の「班猫(はんびょう)」を初めとして、からすなどの鳥、ウサギ、虎や獅子・象など動物を実によく描きます。
魚もよく登場して「カレイとイワシ」がそれそれ1匹、あとは背景も何も描いてない、という不思議な絵もありました。
この絵には「浮沈追逐巧相親」という実に難しい題名がついていて、私には意味がさっぱり分からず、幸い英語に訳してあってこれは「2匹のカレイとイワシが戯れている図(Two Rays and Sardine in Play)」とあり、やっと理解できました。
そう言われてあらためて日本語を見ると、浮く・沈む、追う・逐う・・・となかなか考えて言葉を選んでいるようです。何とも面白い絵でした。
そう言えば、Tさんお気に入りの「絵になる最初」も私はちょっと意味がとりにくかったのですが、英語は「Painting for the first time」とあり、なるほどと思いました。「絵になる」は「絵のモデルになる・画家の前に立つ」最初ということですね。


何れにせよ、画家に限りませんが、何を関心の対象にするか?何にこるか?
というのは人によって違いますね。
パリから京都へという「関心」(羨ましいですね)もあれば、生涯京都を離れない人もいる。
一日中、スマホを話さず、必死になって、情報や「つながり」を得ようとしている人がいる。しかも、その情報が「特定秘密」とされればスマホをいじる人には決して届かない。そもそも彼らは、どんな「意味ある情報」が関心の対象なのでしょうか?これも人によって違うでしょう。
私のような高齢者は、スマホで流れる「情報」のほとんどには興味ないように思う。

そして、最後に、ここ2回ほど紹介した、芥川賞受賞作家の藤原智美のような人もいる。彼は以下のように、自らの「関心の対象」について、やや開き直りとも言えるような言葉で「私はつながりたくない」というエッセイを終えています

・・・・人はしょせん孤独なのだという近代社会が生み出した個人意識は、いざというときに強い味方になる。ネットでつながるという幻想の何倍も強烈だ。メディアで喧伝される「絆」などかげろうのようなもので、1万回唱えたところで本当の絆など生まれない。
たしかに本の未来は暗い。やがてすべては電子書籍という名で、ネットのつながる世界へと回収されていくのかもしれない。
しかし私はいっこうにかまわない。本を手放さない世界最後のたった一人になろうとも、やはり頁をめくりつづけるだろう・・・・・