1. 山口さんの「お試しメール」無事届きました。有難うございます。
前回は、国籍法を改正して「二重国籍」を認めてくれないかと願う日本人がいるという話を書きました。
「京都の顔役」とも呼ばれる下前さんからフェイスブックのコメントを頂き、面白いと思ったので、以下に一部を引用します。
――「二重国籍、二重という言葉に抵抗が有るのかも知れないと思います。二枚舌・二
足の草鞋・二重帳簿・・・と探せば出てくると思いますが、
二者択一の選択肢を小さく取るのは特に最近顕著に表れていると思います。旗幟
を鮮明にしないと生き残れない様な脅迫観念を多くの人が持っている様に思いま
す。過日の国会での安倍総理の演説に対する自民党議員全員の Standing
ovation等は、不気味さを感じました。
旗幟を鮮明にする事が潔いという日本だけに通用する論理が罷り通っているので
はと考えます」
2. 日本人は、「あれもこれも」という態度は好まないのでしょうか。
このコメントを卓見だと思い、「円」と「楕円」についての評論家花田清輝(1909~ 1974)のレトリックを思い出しました。
『復興期の精神』というルネサンス人の生き方を論じた著名なエッセイ集の中で、花田は、「中世」と「近世」を併せて生きたルネッサンス人に、戦中の日本への批判と今後へのヒントを見つけようとします。
1941年3月から43年10月まで、検閲を恐れながら書き続け、「なんとかして、この書物だけは、ちゃんと完成しておきたかった」と言い、戦後になって刊行されました。
「焦点が2つある」楕円について、こう書きます。
――――我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。それは(略)人間にだけ ――誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象を与える(略)。
誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。・・・
鶴見俊輔は、以下のように「解説」します。
―――狂信者が、「こう考える他にない」とつよく相手にうったえかけて、現実にたいするただ一つの視座に相手をしばりつけようとするのと対照的に、
楕円は「ああも見えるし、こうも見える」と言って、(略)、現実にたいして人間のもちやすい固定した視座から相手を自由にしようとする。――――
3. 京都人の生き方にも通じるところがあるかもしれないとも感じ、もう1人の「京都人」が最近開いた個展のことも思い出しました。
以下は、上記の下前さんが送ってくれた京都新聞の報道からです。
――藤原定家の流れをくむ和歌の家・冷泉家の当主夫人冷泉貴実子さんが、(9月)5日、京都市中京区三条通河原町西入ルのギャラリーみすやで、趣味で描き続けてきた油絵の個展を開いた。明るくおおらかな作風が来場者を楽しませている。
子どもの頃から教室に通い、大学では絵画部に所属して絵に親しんできた冷泉さん。卒業後はグループ展に出品するなどしてきたが、古希を迎えたのを機に初めて個展の場を設けた。
会場には、運河に映える夕焼けや砂漠に建つ城、京都御所を彩る桜や桃など、過去20年ほどで描いた絵の中から14 点を並べた。
冷泉さんは「和歌と油絵にギャップがあるかもしれないが、現代に生きている私を見てもらえれば」と話した――
4.私は遠いので個展には行きませんでしたが、絵の幾つかは、実際に見ています。
彼女からは、画集を送ってくれました。
「絵のことはど素人でさっぱり分かりませんので僭越ですが」と前置きして、以下のような感想をメールしました。
(1) 京都御所など身近な風物と海外旅行の思い出の光景、この2つの取り合わせがうまく工夫されている展示だなと思いました。
(2) そして最後に置いてある「春の調べ」が華やかな色調で雰囲気がありますね。
藍色と緑がうまく配置されていて、何だかシャガールを思い出すような「匂い」
を感じました。
(3)色合いと大らかさに魅力がありますね。
「文は人なり」とよく言いますが、「絵も人なり」かなと考えました。
ゴンドラの絵の紫、ベネチアの夕焼の朱色、「森の秋」の色模様など、印象に残
ります。ベネチアで夕焼に遭遇したとは何と幸運なことでしょう。
(4.)何れにせよ、絵は、作者にとってその時の思い出がいつまでも甦ってくるのだろ
うと思います。画集にある絵からは、全てそういう「物語」を感じましたこと、
お礼を申し上げたいと思います
―――などなどを書き連ね、彼女からは「個展おもしろかったです。仕事でないのは、最高でした。」という返事が来ました。
「わたしの楽しみ」という個展につけた表題には意味があるのだなと感じました。
ここにも一人、京都人らしい「楕円的人間」がいるのかもしれません。
5. 最後になりましたが、私が「楕円的人間」の代表ではないかと思う人物に、加藤周一(1919~2008)がいます。東大医学部卒業の医学博士でありながら、『日本文学史序説』などの大作を著し、あちこちの海外の大学で長く、日本文学を講じました。
氏が死去の4年前に出した『高原好日』(ちくま文庫)という本があります。
夏を信州追分で過ごした日々を回想し、様々な知識人との交遊を語ったエッセイです。
彼が最後に取り上げる人物は、15歳年下の憲法学者の樋口陽一です、彼についてこう紹介します。
「衆目のみるところ、憲法学の最高権威で、(略)海外でも知られる。私にとってはその会話の片言隻句も実に刺激的で興味の尽きることがない。
またそればかりでなく、彼の話は、信濃追分で、あるいはパリや北京で、たとえば立原道造や高村光太郎、美食やぶどう酒、五月革命や清朝の絵画にまで及ぶ。」
と書いてきて加藤周一は、続けて、やや唐突と思われる以下の文章で、本書を終えます。いかにも「楕円的人間」を思わせる言葉ではないか、と感じます。
――「その(樋口陽一との交遊の)楽しさはまことに換え難い。思うに憲法第九条はまもらなければならぬ。そして人生の愉しみは、可能なかぎり愉しまなければならない・・・・」と。