第九からメサイアへと『小澤征爾さんと音楽について話をする』


1. いつものように遅くなりましたが海太郎さん有り難うございます。まことに興味深く拝読しました。
まず「第九が季語とは初耳」というコメントについて、俳人の指摘ですから、筆者の誤解かもしれませんね。
引用したのは、演奏会の当日貰ったプログラムの「<第九交響曲>のグローバリゼーション」と題する日大芸術学部の某教授の寄稿です。
・・・・「日本人にとって<第九>の演奏は年末の風物詩、季語にまでなっています。世界的にも異例のことですが、生活習慣に取り込んでしまいました・・・」

季語と言えば俳句の季語と理解したのですが、違う使い方もあるのでしょうか。

第九の様々な演奏については、海太郎さんほど詳しくなく、私が持っているのは、小澤征爾指揮のサイトウ・キネン盤ぐらいです。


2.それと、「第九は聴くより歌うもの」というコメントもご指摘の通りと思います。
私の周りにもいまも合唱を続けている高齢者が大勢居ます。私自身はどうも嫌な性格で、皆に合わせてというのが何でも苦手ですがこういうのは例外で、日本人一般は協調性に富んでいて合唱にはもっとも向いているかもしれませんね。


皆で歌う曲と言えば、やはり年末恒例のヘンデルメサイア」があります。
これまた私は歌うより聴く方が専門でクリスチャンでもないのに、夫婦揃って、60年以上ほぼ毎年12月に聴きに行きます。
海外勤務の時も必ず通いました。NYでは毎年リンカーン・センターで。
ロンドンではサー・ジョージ・ショルティ指揮のロンドン・フィルや住んでいた社宅のアパートのすぐ近くのセントメリー教会に行きました。教会ですから暖房がなくて寒さに耐えながら、あわてて休憩時間に家のトイレまで帰ったこともありました。
シドニーでは12月は真夏のせいもあってか、さほど熱心ではないようで演奏会を探すのに若干苦労した記憶があります。
京都に居るときは毎年12月24日に京都コンサートホールでやる、オ―ル同志社を聴き、東京に戻ったいまは、澁谷の青山学院の「オール青山メサイア演奏会」です。
こちらは大学の講堂で、指揮者・独唱者以外は学生とOBですから、部活の延長みたい、無料で、気楽なものです。
同志社の演奏会は最初に校歌(英語の「ワン・パーポス(One Purpose)」を歌い、青山の方は、西洋人の先生による流暢な日本語の「お祈り」から始まります。今年の「お祈り」は東北大震災の避難者の他、伊豆大島、フィリピンの災害にも触れて、聞いている私たちに、今年の悲しい出来事をいろいろと思い起こす機会となりました。

昨年から2年続けて、都合のつく子ども達とともに中学3年生の孫娘も連れて行きました。彼女は中学の文化祭で「メサイア」から幾つか合唱したそうでたいへん興味を持っています(中学はキリスト教の学校ではありませんが、成瀬仁蔵という創立者新島襄と同じ、ボストンにあるアンドーバー神学校に留学した牧師でした)。

私が初めて聴いたのも中学2年の時。音楽の先生が芸大のチェロの講師もしていて、切符を買わされて仲間と出掛け、以来続いています。
「年末にメサイアに行く」というのが「お正月にかるた(百人一首)をとる」と同じように我が家の風習―「ささやかな、ある庶民一家の物語」―として次の世代にも受け継がれていくとすれば悪くないな、という気がします。もちろん「かるた」の方は、私の親の世代から長く続く「家族の遊び」ですが。

ところで「メサイア」については度々雑文にも書いたことがありますが、例の「ハレルヤコーラス」の時に「立つか?立たないか?」という問題があります。
芸大が半世紀連続のチャリティ演奏会をスタートした初期、1950年、60年代は、聴衆のほぼ全員が起立して聴いていたように思います。

私や仲間の中高生が毎年通うようになったのも、「ハレルヤコーラス」で全員が生真面目に起立して聴き、終わったところで再び席に座るという約束事が面白かったという
野次馬根性が大きいです。
なぜ起立するか?は、英国での初演のときに国王ジョージ2世が、感動のあまり思わず立ち上がってしまい、国王が立ったまま聴いているので聴衆もそれに倣ったという「お話」によるそうですが、これはあくまで「お話」で事実ではないという指摘もあるようです。


こんな些細なことに興味を持つより「メサイア」の音楽や歌詞(聖書の文句)を味わうべきとは思いますが、中学以来、ハレルヤコーラスで「立つか?立たぬか?」が私の大きな関心事になりました。
最近は日本でも、一律に全員が、ということはなくなり、それでもゼロではなく、同志社でも青山でもごく少数の・数十人の人たちが起立します。
海外ではいまはどうでしょうか?
日本で(少なくとも芸大では)全員が行儀よく起立していた頃、NYでもロンドンでも起立するのも座っているのも、各自がばらばら、自分勝手に行動するのが面白く、他方で、20年前のシドニーで聴いたときは全員が立って、昔の日本と同じだなと思ったものです。


日本で起立して「ハレルヤコーラス」を聴く人が少なくなったのは、日本人が昔ほど「皆同じに」ということを気にしなくなったのか、或いは、今度は、起立者が減ってくると「皆同じに」が逆に働いて、何れ、立つ人は居なくなるのか?
などと考えて面白がっています(誰も居なくなったら、天の邪鬼の私は、立ち上がったりして・・・)

たまたま、いま読んでいる本の中で指揮者の小澤征爾さんが
「(日本では)とにかく人前で目立つこと、余計なことを言ったりやったりしちゃいけない。何かというと合議制をやたら尊重する・・・」と語っているのを思いだしました。

村上春樹と小澤さんの対談を本にしたものですが、もちろん同氏は音楽について語っており、かつ日本にも「まとまりがいいとか、熱心に勉強するとか」いいところがいっぱいあるとした上での発言です。

他方で、「ここ(ヨーロッパ)では自己主張をするのが当たり前のことなんです・・・
ところが日本ではみんな、じっくり考えに考えた末に行動します。あるいはじっくり考えた末に、何もやらない。
どっちがいいかと言われると、僕にもよくわからない。ただ弦楽四重奏の場合には、こっちのやり方の方がいいよね。お互いどんどん意見をぶつけ合った方が良い結果が出ます・・・」


村上も以下のように応じます。
「日本の場合、どのような分野でもだいたい同じですね。物書きの世界でも似たようなものかもしれません。まずまわりの人の顔をうかがってからでないと、何もできないというところはあります・・・・」


そのあとの小澤の以下のコメントに私はちょっと考えさせられました。
「最近はね、音楽をやる若い人でも、進んでさっさと外国に出て行く人と、機会があっても出ていかないで日本に残る人とに、はっきりわかれているようなところがあります・・・」
きっと、「まわりを見て、場の空気を読んで、それから手を上げて無難なことを発言する」と村上が指摘するような対応が得意な人は、日本はとても居心地のよい場所なのだろうと思いました。