「慶応義塾と戦争」展―上原良司氏の場合


1. 秋晴れと曇り日が代わる代わるに訪れるようですが、慶応義塾の三田キャンパスを訪問した10月23日は曇りでした。
福澤諭吉を読む」ゼミは正式には終わりましたが、4年目に入っても「自主ゼミ」と称して人数は9人と減りましたが、まだ続いています。
いまは福沢諭吉(言うまでもなく慶応義塾創始者)だけでなく、明治のほぼ同時代の思想家の文章も読むということで、中江兆民、田口卯吉、徳富蘇峰、馬場辰猪などの文章にも挑戦しています。
新島襄内村鑑三については、私がささやかな発表をしました。
ここまでしつこく続いているのは、前福沢研究センター所長の米山教授の人柄に因るところ大です、加えて、75歳の老人に比べればはるかに若い60歳前後の女性が5人、うち慶応のOBが3人で、「若い女性」との語らい(時に飲みながら)が楽しいということもあります。11月には、伸び伸びになっていた、福沢の生まれ故郷・中津(大分県)を訪れる予定です。


2. ということで今年から「自主ゼミ」は月1回に減りましたが三田の研究室で開かれ、私は夏の間田舎に居たこともあって暫くぶりの出席でした。
キャンパスに着いたのが昼休み。校庭では応援部の学生が元気よく応援歌を歌っていました。女子学生に「何やってるの?」と訊いたら「(11月1~2日の)慶早戦の前哨戦です」と言うので、「えっ、早慶戦のこと?」と訊き返したら「いえ、慶早戦です」と優しく訂正されました。
嫌みと言われそうですが、帰宅して広辞苑を拡げたら、「早慶戦」は出ていたが「慶早戦」はありませんでした。

3. と、ここまでは例によって下らない前置きです。
本題は、いい機会だったので、ゼミの前に、7日付東京新聞夕刊1面の記事で知った「慶応義塾と戦争?」という展示を見てきたという話です。

(どんな企画か)
(1) 慶応大学で学徒出陣など太平洋戦争の戦死者は2200人以上が確認されている由。
(2) 戦死に限らず「先の戦争に関する慶応関係者の多様な実物資料を掘り起こし、残しておくことを柱とする」プロジェクトが大学内でスタート。
福沢研究センターの都倉准教授が中心となり、学生の協力も得て、今回はすでに集めた1000点余のうち約100点を公開している。
(3)三田キャンパス内にて10月31日まで。
早稲田大学でも同時期、同じような、戦死した学生を悼む催しを実施している由。


4.例えばどんな遺品が展示されているかというと、上原良司氏とその家族について「ある一家の場合」という資料があります。
(1) 長野県安曇野市の上原家に残された大正末期から昭和の資料を2010年から調査し、収集している。開業医の一家で、5人の子供(男3人女2人)に恵まれた。3人の男の子は何れも慶応に進学し、2人は医学部へ、3男の良司は経済学部に進学したが、3人とも太平洋戦争で戦没した。
(2)資料からは、平和で豊かで、仲の良かった地方の素封家の幸せな日常が察せられる。例えば、庭にはテニス・コートがあり、長男が愛用したドイツ製のカメラとそれで撮った厖大な写真が残されている(医学部生の日常や早慶戦、家族との交わりや故郷の風景など)。

5. 中でも、3男の良司氏の悲劇は良く知られている。
(1)本人の意志ではなく、経済学部を繰り上げ卒業し学徒出陣し、昭和20年5月11日、22歳で特攻隊員として戦死した。彼が特攻出撃前夜に記した「所感(遺書)」(秘かに上原家に届けられ、残っている)は、戦没学生の手記を集めた「きけわだつみの声」の冒頭に置かれた。
良く知られた一部を引用すると、
――― 思えば長き学生時代を通じて得た、信念はあるいは自由主義者といわれるかもしれません。自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、 底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。・・・現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。・・・ 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
空の特攻隊のパイロットは・・理性をもって考えたなら・・・自殺者とでもいいましょうか。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。
・・・明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
明日は自由主義者が一人この世から去って行きます・・・・。

(2)展示されている遺品の中には彼の愛読書もあります。
それは羽仁五郎著「クローチェ」(クローチェとは、ムッソリーニファシスト政権を批判したイタリアの歴史家・哲学者だそうです)で、学徒出陣が発表された昭和18年9月22日夜、彼が見返し部分に家族への別れを記した本。
さらに本文隋所に、○で囲まれた文字があり、つなげると・・・・「きょうこちゃん さようなら きみがすきだった」・・・・・・


6.こういう資料を見た人は何を感じ、何を思うだろうか?と暫く考えました。

私であれば・・・
(1) 説明してくれた都倉准教授の言葉と私の補足ですが、
「当時の大学生は、同世代の2〜3%に過ぎず、エリートと言ってよい。
特に慶応の学生は、恵まれた、自由で、教養や文化に囲まれた平和で幸せな環境に育った若者が多かった。
そういう若者が、突如として、軍隊と戦争という過酷な、いままでの価値観や思想とは眞逆を強制される状況に置かれて、国のために死ねと言われる・・・
その悲劇・辛さをあらためて感じる・・・・」
(2) それは確かに例外的な日本人だったかもしれない。戦争前といえども大多数の庶民が貧しく、日々を必死に暮らしていただろう。「ええとこの坊っちゃんの悲劇」と受け止める人もいるだろう。
しかし、それだけに余計に、
幸せで仲良かったインテリの一家を突然襲った悲劇、3人の男の子を全て戦争で失ったという、「明」から「暗」への大きさを感じざるを得ません。


3人について言えば、自由を謳歌し、或いは医者を、あるいは研究者や実務家を目指して学問に励んだ大学生活と、それが自らの意志ではどうしようもなく、突然に切り裂かれて、兵役へ・戦争へ・そして若すぎる死へと向かわざるを得なかった、光と悲劇との距離がどんなに近くにあったかを痛切に感じさせられて、痛ましいとしか言いようがありません。


(3) そして当然ながら、「戦争を美化する」ことへの強い疑問をも感じざるを得ません。
「国のために死んだ英霊を祀る・・」と言う人がよくいます。
しかし、「国のために死ぬ」とはどういうことだろうか?
自らの意志で職業軍人になる道を選んだ若者の場合は多少違うかもしれない。
しかし上原良司氏のような、自らの意志ではなく「22歳で去っていった1人の自由主義者」においては、
それは「国家によって強制された死」、「国によって死に追いやられた、否応なく未来を断ち切られた若者の、あまりに短い生」としか言いようがないのではないか。
母校の創立者江原素六が終生愛した、「青年即未来」という言葉を思い出しながら、そんなことを考えました。