読書週間と「最近何読みました?」


1. 我善坊さんarz2beeさん有り難うございます。コメント心に沁みました。
「きけわだつみのこえ」は幾つも改版があると思いますが、学生時代に読んだ本がもう手元にないので原典にあたっていません。ブログは(例えば紀要に書くなんかと違って)どうもこの辺が手抜きになってしまいます。インターネットの普及でフェイスブックなど手軽に発信できるようになりましたが、プロと言えども、1次資料をチェックしないで書いてしまうことが増えているのではないか・・・自戒もこめて気になります。
「少年飛行兵」の悲劇もご指摘の通りです。
方や「自らを自由主義者」と規定して戦争を肯定出来ずに特攻に赴く若者と、洗脳された少年と、どちらも悲劇としかいいようがない気持ちです。後者は、イスラム自爆テロにも通じるように思います。
「語る資格がないのではないか」という想いは本当にそうですね。私も、「慶応義塾と戦争」という展示を見た、こういう内容だった、という事実を語ることしか出来ないように感じました。各人がそれぞれどう受け止めるかですね。

2. 何だか辛い話になりましたが、話変わって10月27日から11月9日までは読書週間だそうです。神田神保町で「古本まつり」をやっていますが、結構人出が出ていました。若者も多くいて、沢山買った本をリュックに詰めていました。いい光景でした。
斉藤美奈子さん(文芸評論家)が新聞のコラムに「新聞の社説なども含め、読書のすすめが急に増える時期だ」と書いています。
1カ月に1冊も本を読まない人は、文化庁の調べで、47.5%だそうです。(あらためて、ちょっと驚く数字ですね)。

斉藤さんはこの数字をふまえて「読書離れを起こしているのは誰か?大人である」と指摘し、「若者の読書離れを心配する前に、ご自身の生活をふりかえられたし。あなた、最近、何読みました?」という問いかけで終えています。
 他方で東京新聞の10月29日の社説は、「本で町を元気にしたい」という見出しで、「市民手作りの図書館が増えている」ことや、北海道留萌市での取り組みを紹介しています。同市では、書店ゼロの状態から三省堂の誘致に成功、ここで毎月「おはなし会」を開き、しかも読み手と図書の選択を小学生に任せているそうです。
 小学生はちょっと早い感じですが、中高生あたりに選んでもらって、「大人」に向け「中島敦はどうですか?村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ-』を読んでみませんか?」なんて呼びかけるなんて素敵だなと思います。


東京新聞の社説は、時々こんな風に、格調高い論陣を張るより、日本の片隅の地味な活動事例を紹介するものがあって、面白いです。


3. それにしても、斉藤さんではないが、大事なのは「何を読んだ?」ですね。
今回は読書について考えてみたいですが、
(1) 新聞の社説や「読書週間」でいくら「読書の勧め」を訴えたからと言って、本を読む「大人」が増えるものでもないのではないか。
(2)そもそも本は、読みたい人が読めばいいので、興味の無い人を「これを食べろ」と押しつけても意味がないのではないか。
(3)前にも引用したことがあるが、所詮読書は「贅沢であり、楽しみであり、効用なんかない」と考えることが大事ではないか。もちろん「実用書」も「本」と呼べば別かもしれないが。
異論もあるでしょうが、こんな風に思います。

4. たまたま友人とメールで以下のようなやりとりをしているところです。


――友「NHKアサイチを観ていたら、島尾敏夫の「死の棘」と言う小説が出てきた。読んでみようかと思うが知っているか?もっとも読む本が多くて悩むところだが」
私「名前しか知らない。日本の小説やエッセイの、私事や身内のことを書くのは全く苦手でほとんど読まない。
読む本がたくさんあるのは楽しみでもあるが、このうち、ぼけるか・くたばる前に何冊読み終えるかと心配が増えてくるのが困る。最近は、再読・再々読に凝っていて、「再読が本当に本を読むことだ」という言葉を至言だと思うようになった。
友「読書対象は猛烈に絞る必要が 確かにある。でも我々の齢ではいくらも視力が持たないのではないか。再読に値する本と読み捨てる本とやはり混ぜて読まないと参ってしまうよ。漫画も少し読むとよいかも。読書も食べ物と一緒のような気がする。たまに子供の飴玉も気楽かも」
私「読み捨てる本は、本当は「読まない」に越したことはないが、そうも行かない。
ただし、本を読むのは、所詮、無駄・贅沢以上ではないように思う。だから人によって
は、プラトンだって小林秀雄だって「子供の飴玉」かもしれない。
当方は漫画は無縁だが、英米のミステリーは大好きで、幸いに「読み捨て」は少なく、例えば「アクロイド殺し」など何度も読み返している・・・・」

5.下らないメールのやりとりの紹介になりましたが、
たまたま、先週の3連休は、信州の山奥で過ごしました。冬は住めないので水抜きをして小屋を閉めて「来年また元気で来られるかな」と思いつつ、田舎を後にします。
落葉松の紅葉がみごとで、この時期の山奥がいちばん好きです。


当地でのインターネット接続料を節約するため2日間はPCが使えず、久しぶりにネットに無縁の時間を過ごしました。
庭の紅葉を眺め、ストーブの火を眺め、人気も都会の音も全くない山小屋で、ひたすらCDを聞きながら、PCを捨てて本を読むのもいいものだ、(お金はかからないが)最高の贅沢かもしれないと思いました。家人も「どこにも行きたくない。大型クルーズも海外旅行も興味ない」と言っています。

そこで、何を読んだかですが、「〜を読んだ」というのも「〜のラーメンがおいしいよ」と喋ったり、台所の料理を見せたりするようなもので、多少の恥ずかしさはあります。
しかし「あそこのラーメンおいしいよ」と宣伝し・伝えたくなる気持ちも分かるので、似たような感覚になりますが、敢えて触れますと、


たまたま読んでいるのは、『吉田健一』(新潮社)です。長谷川郁夫著、上下2段組みで650頁の大著、税抜きで5000円。今年9月30日に出たばかり。東京新聞の書評で「読み始めたらやめられない」とあったので、高いからどうしようかと1カ月ぐらい丸善の書棚の前で悩んで、ついに買い求めたばかりです。

しかし、買ってよかった。確かに面白い。大部ではありますが、およそ3分の1は吉田自身の文章を初めとする引用、3分の1は文士仲間の交遊と銀座の飲み屋「はせ川」の話ですから、ごく気らくに読めます。
もちろん話題は極めて偏っており、人によっては無意味な書物ですから(要は昭和の文士の、時に無頼な・時に高踏的な思考と行動が語られる)、決してお勧めする本ではありません。
吉田健一と言えば「読書の効用なんかない、ただ贅沢で読むだけ」という主張の急先鋒。
専門はもちろん英文学でこんなセリフも吐く人です。
「英国の文学が見方によっては世界で無類であるのは自分が生きていることの証明を精神の働きにも求めるという英国人の生活態度が、そのまま文学というものの原則としても通用するからである」

ということで、暫くは他に何もしなくとも、この本を手にして、楽しく時間を過ごせそうです。
最大の問題はこの本を読みながら、どうしても吉田健一の著作をまた読み返したくなり・・・・こうして「読みたい本のリスト」が際限なく拡がっていくことです。