コメントに触発されてまだエリートとメリトクラシー

日増しに春らしくなりますね、週末、3組6人で伊豆高原の某企業の寮に1泊し、温泉につかってきましたが、早咲きの河津桜やオオカン桜が満開でした。
世田谷羽根木公園の桃もまだきれいです。
というのは前置きで・・・・・・

1. 「アメリカの新しい貴族」と題する英国エコノミスト誌の特集を紹介しましたが、我善坊さん、柳居子さんコメント有難うございます。
たいへん面白く読んだので、この問題を補足します。
何の関係も無い庶民がこんな話題をしつこく追いかけるのも馬鹿げているかもしれませんが。


2. 我善坊さんのご指摘全般には異論ありませんが、1つだけ「エリート(以下A)の再生産ではなく、セレブ(以下B)の再生産というのが正確だろう」という指摘は、私の説明不足もあったでしょうが、少し違うように思います。


エコノミスト誌自体が(原文の訳を後ほど載せますが)「A」という言葉を何度も使ってその「固定化・世襲化」を危惧しています。
そもそも英米の新聞雑誌には「B」という言葉をあまり見掛けません。カタカナ語の「セレブ」とは使い方・意味が違うかもしれませんし、日本には「社会階層としてのA」という理解が無いからかもしれません。


3.実はこの問題は、4年前に同じようにブログで考えたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20110214
簡単に繰り返すと、
オックスフォードの英英辞典の定義はそれぞれ以下の通りです。
「A」=「権力、知能、富、(生まれ・特定の身分・・・)などを備えていることから、一番あるいははもっとも重要と考えられる社会グループのこと」
「B(celebrity)」=「有名人、例えばよく知られた俳優や映画スター」


つまり「A」は社会グループであり、{B}は少数の個人です。
最大の違いは、「数と階層」であり、行動様式です。
(1)数について言えば、「権力・富・知能・・・」を備えている「A」はアメリカ社会であればどんなに少なくても全人口の0.5%、1~2百万人は居るでしょう。
他方で、{B}は、誰もが知っている「有名人」は多くても数千人かそもそも「社会階層」でない以上はるかに少ない数ではないでしょうか。
(もちろんBがAでもある、ということは十分あり得る)
従って、「A」の固定化は社会学的な問題になるが、「B」の世襲は、社会現象ではあっても社会構造に与える影響はきわめて小さい。後者を(日本の週刊誌ならいざ知らず)英国エコノミスト誌が特集することは無いでしょう。

(2)行動様式について、AとBの分かりやすい区別は、知られることに意味があるBとは逆に、Aは、自らが「A」であることを知られたくない。むしろ、隠す。
(何故か?――自らと自らの階層の安定・安全のためには、見えない方がはるかに好都合だから)
もちろん、選挙で選ばれる政治家の場合は、「知られること」が大事でしょうが、その場合でも「私は庶民の出で庶民の味方だ」という主張を好み、自らが「A」であることを見せようとはしないのではないでしょうか。
英国のイートン校という英国で一番のエリート校では、卒業してもイートンのOBであることを自ら決して言わない、というしつけを在学中に厳しく受けるそうです。これも「(見せない方が自らを守れるという)エリート教育」の1つでしょう。


この点で柳居子さんの、トヨタ社長についての紹介「新社長は豊田の姓は関係ない、私が社長に相応しいと皆が決めた事だと記者会見の席で言い放った」そうですが、
なぜこういう発言が出るかを考えるとたいへん面白いです。
「戦後の日本は、生まれや富や権力が継承されるという階層社会ではなく、メリトクラシー(meritocracy)=実力社会、である。自分も、能力と努力、実力でここまで来たのだ」と宣言したかったのでしょうか。
それとも(某首相なら言いそうですが)「私を選んだのは貴方がたでしょ」という開き直りでしょうか。


4.この「メリトクラシー」という言葉は1950年末の造語ですが、アメリカ社会にもっともあてはまるとされてきました。
それが今や「メリトクラシーが相続される社会(An hereditary meritocracy)」になっている、
というのがエコノミスト誌の指摘で、その結果、社会階層としての「A」(個人としての「B」ではなく)が固定化するという危惧です。


5.ということで、少し長くなりますが、最後に同誌のさわりの部分を直訳すると以下の通りです。

――――1950年代末に英国の社会学マイケル・ヤングが「メリトクラシー」という造語を紹介するまで、成功、富、権力などは、生まれではなく本人の能力と努力によって得られるという状況を指す別の言葉があった。すなわち「アメリカ人であること」だ。

もちろん、アメリカにも当初から、上院の議席や鉄鋼会社の社長室などに富と権力を持った人たちが居た。しかし同時にどの国よりも強く、能力と努力と進取の気性があれば誰もがこういう優れた「エリート」になれるという信念を持った社会だった。
そうでない時には、アメリカ人は率直に社会への憤りを口にした。
グレート・ギャツビー』の中でニック・キャラウェイが、(成り上がりの)ギャツビーの方がはるかに立派な人間だったと思いだしながら、「社会のトップに代々居座っているのは腐った連中ばかりだ」と言ったように。


ところが、今日の「エリート」は、キャラウェイが憤る(ニューヨーク郊外の高級住宅地ウェスト・エッグに住む)「腐った連中」とは程遠いのである。
彼らは、多かれ少なかれ、能力に恵まれ、優れた学校で教育を受け、良く働き、忠実に親の職務を引き継いでいる。今日の「エリート」は単なる生まれや人的コネだけで得られるステイタスではない。しかも新しく参入することがますます難しくなっているのである ―――

と書いてきて、記事はこの節を以下のように結びます。


――――現在の「アメリカのエリート」は、以前よりはるかに、「エリート」という存在にふさわしい子供たちを生み出しているのである。―――

かって、ニック・キャラウェイが軽蔑したような「腐った(社会階層としての)エリート」が少なくなり「優秀な(社会階層としての」エリートが同じような「(社会階層としての)A」を再生産している・・・・
だからこそ、社会の活性化・流動化が衰え、能力があっても「A」に属さないがためにその能力が社会の為に有効に使われない状況が増えつつある、それが問題なのだ、


という訳です。
しつこく書きましたが、社会(学)的な問題であることをご理解頂けると有難いです。