まだ「なな」と「しち」と隅田川・深川散歩

1. まず平野悟郎さん、2月14日と21日のブログへのコメント有難うございます。宇治の大学で教鞭をとっておられるとは嬉しく、懐かしいです。
何れフォローさせて頂きますが、今回は御礼のみです。


前回のブログには我善坊さん有難うございます。ご指摘のコメントまことにご尤もです。
補足すると、『京都ぎらい』の著者は、
――「しち」も「なな」も中央政府は公認だが、「ひち」という発音は認めない。
だから「七条(ひちじょう)」を「しちじょう」と言いたくない京都人は仕方がないから「ななじょう」と呼び変える。これなら中央政府の方針と矛盾しない ――
という理屈です。
京都市自体も悩んでいるようで、ネット検索すると、両方の表記が出てくるし、

“あなたは「しちじょう派?」それとも「ななじょう派?」
なんて問いかけるサイトもあります。


これもネットで見ましたが、
NHKは「ことばのハンドブック」で、数字の入る言葉を音読みか訓読みか原則をすべて決めているそうです。
例えば、数字のあとに「年」を付ける場合は音読みが原則、但し、「7」と「9」は例外も許容される。
したがって2007年はニセンシチネンが原則だが「ニセンナナネン」も許容される。
日本語を学ぶ外国人はさぞ悩むでしょうね。


2.言葉の問題はとりあえずこのあたりにして、
言うまでもなく、3月10日は東京大空襲から71年、
11日は東北大震災から5年。
我が家は、読売新聞を購読していないので、友人が「編集手帳」という朝日の天声人語の読売版10日付を送ってくれました。

コラムはこう書きます。
―――米軍機B29がおびただしい数の焼夷弾を東京上空から降らせたのは71年前の今日である。9万2778人が死亡した・・・水辺に逃げた人たちの遺体からにじみ出た脂で隅田川はにごったという。
・・・無差別の大量虐殺である、この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍に、日本政府は戦後、勲一等を贈っている。東京五輪の年、1964年。
自衛隊育成の功労者」という名目だが・・・・霊は泣いただろう。・・いまもって理解しがたい」――――

「理解しがたい」という気持ちに私も共感します(3月10日は下町が焼けましたが、その後5月25日は山の手で、渋谷区にあった私の生まれた家も全焼しました)。


友人からの補足情報によれば、
「勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しな
かった」そうです。しかしそもそも、日本の勲章をもらいにアメリカからわざわざやって来るとは、とても思えませんが。
そう言えば、昨年は、ブッシュ・ジュニア大統領時の国防長官でイラク戦争の責任者ラムズフェルド等がやはり勲1等!。


3.また「編集手帳」の執筆者は、
『・・(死者の)霊が見えるなら、東京なんて一歩も歩けない、と東京大空襲の生き残りの父』
という五行歌を紹介して、
「『東京なんて一歩も歩けない』とは道理である」と補足しています。

これを送ってくれたメールを読んだのは実は、隅田川べりを歩いた直後だったので、五行歌の一節を読んでちょっと衝撃を受けました。

実はこの土曜日に、世田谷区の有志でやっている読書会のテキストに、司馬遼太郎の『街道をゆく、本所深川散歩・神田界隈』が決まり、私が発表の担当なので事前に歩いてみようと思ったものです。
隅田川を眺めて、清洲橋のたもとに立って写真を撮ったりしました。寒い、曇天の日でした。


司馬遼太郎が本書で、深川江戸資料館という区立の博物館に触れているので、そこを訪れるのが主たる目的でした。
彼はこう書いています。


「(資料館には)江戸時代の深川の町家のむれが、路地・掘割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され、再現されており、吹き抜けの三階からみれば屋根ぐるみ見えるし、また階下に店先に立つこともできる。
・・・八百屋、船宿から、各種の宿屋もある。火の見櫓もそびえており、掘割にはちょき船も浮かんでいる・・・・すべて原寸大である。」

下町は普段あまり馴染がない場所なので、よい経験になりました。
しかし帰宅して、この「編集手帳」に紹介されている五行歌を読んで、
気楽に歩くことへの後ろめたさも感じました。


もっとも司馬遼太郎は、本書で本所深川を歩き、様々な人達(鳶(とび)の頭など)に会ってフィールド・リサーチをしたり、昔このあたりに住んだ人たち、例えば勝海舟のことを考えたり、落語の「文七元結」を思いだしたりします。
しかし、戦争のこと、まして東京大空襲については一切触れません。
彼の関心は江戸から明治に変わる時代、近代化とは何だったのか?にもっぱら絞られます。
大阪人として、体験していない東京の悲劇を語る資格はないと考えたのでしょうか。

他方で、司馬遼と同年、関東大震災の年、1923年生まれの池波正太郎は、浅草生まれです。
しかし、亡くなるまでこの地に住み・愛し、歩き、文章に残します。
そして
「私は、大川(隅田川)に面した聖天町に生まれ、のちに浅草・永住町にうつり、戦火に家が焼かれるまでは、そこに住みつづけていた。私が海軍にとられたあとは、祖母と母が、何度も家を焼かれながら、東京中を逃げまわっていたものだ」
と書きます(2003年新潮社「わたくしの旅」から)。


私はこの日、どういう気持で隅田川べりを歩いたのだろうと思い返しながら、池波正太郎の文章を思いだしました。

4.そう言えば、落語というか人情噺の「文七元結」はご承知の通り「ぶんしちもっとい」です。これが「ぶんなな」では江戸っ子の風情が出ませんね。志ん生の語りなら「ぶんひち」と聞こえます。
司馬遼は主人公の、左官の長兵衛を典型的な「江戸っ子」の類型として本書で詳しく紹介しています。