まだ司馬遼太郎のことと「天地間無用の人」

1. 寒さで桜もちょっと様子見でしょうか。早咲きの駒場の東大キャンパスはだいぶ咲いていました。
26日の土曜日は家人と出かけて司馬遼太郎の歩いたあたりを歩きました。

湯島天満宮にもお礼参り。「合格祈願」や「合格お礼」の絵馬があふれるように飾ってありました。「人事を尽くして天命を待つ」の心境でしょうね。

そのあと家人の買い物のお供で浅草のかっぱ橋商店街に行きましたが、食べ物屋関係の品ぞろいが豊富で、面白いところです。サンプル食品の店など外国人観光客も訪れてウィンドウ・ショッピングをしています。

2. その司馬遼太郎ですが、読書会で読んだ『街道をゆく36本所深川散歩、神田界隈』(朝日文庫)を今回もフォローします。
彼は1923年生まれ、関東大震災の年、同年生まれに池波正太郎がいます。
哲学者の梅原猛によれば、「司馬遼太郎の文学は国民文学といわれる。国民文学とは、その国のあらゆる人、老いも若きも男にも女にも広く愛読され、しかもその読者に人生とは何かを教え、生きる勇気を与える文学である」。
また「司馬の前といえば吉川英治だろうが、司馬文学の高い水準の理由は2つ。1つはその学問と見識、もう1つは歴史の見方に必ず外から日本をみるというインターナショナルな目があることである」とも言います。

国民文学という言葉が英語にもあるかどうか知りませんが、英文学ならシェイクスピア、チャールズ・ディケンズあるいはアガサ・クリスティあたりでしょうか?


梅原はまた、司馬遼太郎を評して「いささかシャイな、道徳的懐疑主義者ではないか」と言っています。
私も、「シャイ」な人だったのではないかなと同感です。加えれば、「ロマン」への性向でしょうか。
何せ「蒙古語学科」卒のモンゴル騎馬民族大好き人間、大阪人には珍しく、商業資本主義的な匂いや日本人の土地への執着が大嫌いな人でした。「貧を恥じないという薩摩の武士の文化」をたびたび称揚しています。読書と人間観察以外無趣味で、ぜいたくな人間ではまったくない。そこが人気の1つの理由ではないでしょうか。


3. 「街道をゆく」は紀行エッセイ。全43巻、韓国・モンゴル・アイルランド・オランダ・ニューヨークなどの海外も含みます。東京を取り上げるのは、「33赤坂散歩」「37本郷界隈」と本書の3つ。
著者は歩きながら、さまざまな人に会い、歴史や歴史上の人物や文学などについての豊富な「引き出し」を開けてみせ、主として幕末から明治にかけての日本と日本人についての考察を紡ぎます。


「本所深川散歩」であれば例えば、「江戸っ子とは」(「それは「型」なのである。
倫理には型があり、内発的よりも型が倫理を打ちだすといってよい」)、「武士とは」(「古来、多くの武士は、吉良方のようにして死んできたのである」)、「隅田川と橋のかずかず」(「下町は橋で覚えろ」)。

「神田界隈」であれば例えば、「江戸幕府の土木工事・水道工事への評価」(「江戸の地は、すべて人の手で造成された。こんにちにいたるまで東京の地面で江戸以来の人の汗が落ちなかった土は寸土もない」)、「学びの街・本屋の街」(「3つの官立学校が狭い神田の地に興り、維新後、私塾が神田にむらがりおこったのも壮観というほかない」)と「そこに住み・必死に学んだ明治の人たち」(「明治は、駆けながら法をつくり、法を教える時代だった)」。

4. ロマンティストで騎馬民族志向である司馬は「武士」が好きなのですね。
もちろん「武士」とは暴力集団であり、武士道とは暴力団の掟にすぎないという学者の意見も読書会で紹介されました。


しかし司馬は、こういう風にとらえます。
―――私は、日本史のながれのなかに、三つの大きな美的もしくは倫理感情があったとおもっている。
ひとつは『源氏物語』で表わされた“もののあはれ”である。
もうひとつは『平家物語』における坂東武者たちの、「名こそ惜しけれ」というたかだかとした美的倫理感情である。
同時に、明治の悲しみという日本文明史の上で最大の感情といえるものを忘れては、日本人は情緒欠陥人間になってしまう。(『愛蘭土紀行』)―――

だから上に紹介したように、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介を守って死んだ武士たちについても
「吉良方への同情は少なく・・・・気の毒というほかないが、しかし犬死とすべきものでもない。かれらもまた武士であったし、主家のために死ぬことがその身分の基礎になっている。古来、多くの武士は、吉良方のようにして死んでいったのである」
という認識が生まれるのでしょう。


それは、潔く負ける、負けたら世を捨てるという「生き方」への評価にもつながります。
だから彼は、神田明神のあたりを歩きながら、幕臣だった人たちへの愛着を語ります。
例えば幕臣で将軍の侍講だった秀才の成島柳北(1836年生まれ)、みごとな進退、維新後「天地間無用の人」と自ら呼び、官に仕えなかった。

ほろんだ旧幕臣のなかで、明治後もつぶしのきくはずの洋学派のひとたちが、かえって頑固で気骨のある姿勢をとった例が多かった。咸臨丸で米国に行った提督・もと海軍奉行の木村芥舟も維新後いっさい身をひき、新政府の誘いにも応ぜず、明治後は、貧窮に過ごし、詩文三昧の生活を送った文人」となったなど・・・・


同じ「負け」でも昭和10年代の傲慢がゆえの「ほろび」はこれを「異形の国家」と排斥して本来の日本はこうではなかった、という、いわゆる「司馬史観」にもつながります。
もちろんこれは「史観」というより、司馬さんの「気分」あるいは「ロマン」と解すべきでしょう。
その限りでは目くじらを立てるより、その「気分」に何がしか同調したい気持ちは多くの人にあるのではないでしょうか?


5.他方で、御指摘のように、それと対極的な「気分」もある訳で、たとえば以下のような感想です。
「私は、20世紀のなかばごろまでつづいた諸外国を相手どった対外戦争も、明治維新の延長線上にとらえている。維新でときはなたれた民族のおたけびが、ああいう膨張をあとおししたのだ。・・・フランス革命で高揚した民族精神が、あとでナポレオンの対外戦争をささえるようになる。それと同じ歴史のからくり(ではないか)」
これは今話題のベストセラー、このブログでも紹介した井上章一日文研教授の『京都ぎらい』からの1節です。


私たちもまた、彼の「史観」のすべてに同意するか否かはともかくとして、明治人の学びへの情熱を思い、「私たちとは?その社会とは(どうあるべきか)?」について自分なりの真摯な考察を続けるべきではないでしょうか。