- 京都にはもう1年以上ご無沙汰しています。
残念に思っていたら、大勢の京都人が下洛してこられました。
昨年の8月、赤坂で下前さんの「床屋談義」と題する講演会があり、好評だったのでその2回目が同じ場所で昨日開かれ、私も何を措いても出席しました。東京は桜満開でした。
- その報告はまずはご本人のブログに譲るとして、私の今回は京都上賀茂神社での「曲水の宴」と短歌の話です。
曲水の宴とは、平安貴族の優雅な催しで、流れに添って歌を一首詠んで、それを小川に流し、お酒を一献頂くという優雅な趣向。
これをいまも伝える人たちが京都にいて、毎年4月に上賀茂神社で開かれます。この日詠まれる歌は、一般からも募集します。
実は2019年には、職場で同期だった某君が応募して、見事に第1位(天)の最優秀作品に選ばれました。
このときのお題は「山吹」。彼の歌は、
――児を抱きて 撮りし写真の背景に 今なほ眩し 山吹の黄はーー
選者は永田和弘氏。そして彼は当日の「宴」に永田氏などプロとともに家人として招かれ、袍(ほう)という公式の装束に身をつつみ、式典に参加して、歌を詠み、小川に流しました。地元のテレビでも放映されました。
大した偉業で、友人にかかる文化人がいるとは誇らしいことです。彼は、そのことは「光栄で嬉しいが、同時にこういう古い文化を継承する試みが、いかにボランティアや寄付をやり繰りしながら守られているかを痛感した」と語ってくれました。
3. ここまでは以前のブログで報告ずみなのですが、今回はその続きです。
(1)今年はコロナのせいで行事そのものは中止になりました。
しかし「短歌」の一般応募は実施したそうで、彼が今回応募した作品は、第2位の「地」に選ばれたというメールを貰いました。
お題は「春の雪」。彼の歌は、
――春の雪 消残る(けのこる)街を父とゆき 戦災孤児の 視線にすくみき ――
(2) 本人の弁は、「下の句が今ひとつで、全体が詩でなく、説明文になったと思う」とあり、「短歌は短い形式なので、なんでも表現できるというものではない。今回はちょっと無理だったかな」と反省していました。
それにしても、私のような短歌を作ったことのない野暮な人間からすれば、「第2位」だって立派なもので敬服します。それと、あの悲惨な戦争を多少は記憶する私としては、心に残りました。
- ということで、最後に私のメールと彼からの返事を紹介します。
私から ――「おめでとうございます。とても良い歌だなと思いました。選者の永田和弘氏好みの歌ではないでしょうか。
父と歩いているおそらく同世代の少年の姿を、戦災孤児が見つめている。幼い作者はその視線を痛みとともに意識している。その感性が光り、光景00が胸にやきつきます。
私は、昭和20年6歳で父を失い、あちこち転々として東京に戻ったのは戦後4年目でした。従って自身は「戦災孤児」の姿を見た記憶はありません。ただ、父親と一緒に歩いている同じ年ごろの子どもを見たら複雑な思いを抱いただろうなとは思い、この句の情景がよくわかります。
当時であれば、上野の地下道あたりでの出会いだったでしょうか。それにしても、我々の下の世代には言葉もイメ―ジも想像つかないかもしれませんね」。――
- 以下は、彼からの返事です。
――おっしゃる通り、終戦間もない頃の上野の地下道での記憶に基づいて、一首を試みたものです。
昭和20年3月10日早暁、深川区新大橋八名川で空襲を受けました、父は在郷軍人でしたから、空襲が始まると家族を置いて持ち場に駆けつけ、業火の中、母が僕(6歳)、妹(3歳)の手を引き、弟(5ヶ月)を負ぶって逃げ惑いました。人波というか人混みというか、ただ押され押されて、池と樹木のある清澄庭園になだれ込んで、幸い奇跡的に生き延びました。さらに昼頃、あの世から僕の名を呼ぶような声を耳にして首を巡らすと、盲目の人を抱えて我々を探している父に出会いました。第二の奇跡です。父は父で、猛火を逃れて大川(隅田川)に飛び込み、近くで溺れている人を助けながら一夜を過ごしたそうでした。
今回の拙詠はその頃のある日の記憶です。通り過ぎる人々にとりすがって物を乞う少年たちが父と一緒の僕を見ると、睨むように見つめるばかりで近寄ってきません、子供ながらに、自分だけが親といることに罪を負っているような、いてもいられない気持ちを持ちました。あの射るような目、目、目を忘れることはありません」――
- 前回、イシグロの『クララとお日さま』を紹介し、小説は想像力で読むと思う、と書きました。
短い定型詩では、小説以上に想像力が必要でしょう。
そして、その力を育むには記憶と知識(=記録)が大事だとすれば、戦災孤児の記憶も知識も持たない世代がほとんどの日本人になったいま、この歌を詠んだ作者の想いを想像しろと言っても無理かもしれない。難しい問題だと思います。