カズオ・イシグロの「受賞記念講演(Nobel Lecture)」を聞く


1. 東京も寒い日が続きます。さざんかの咲く朝の散歩道、完全武装で歩きます。
もっとも天気は快晴の日が多く、1週間前、日帰りで京都に行ったときもよく晴れて、富士山がきれいに見えました。
ひとり旅をしている中国人の若い女性が「きれいに見えますよ」と日本語で教えてくれたので、私もあわてて写真を撮りました。


車内で、イシグロのノーベル賞受賞記念講演(Nobel Lecture)の長いテキストを読みました。
(1) このテキストも、
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2017/ishiguro-lecture_en.html

(2)講演の生中継も、https://www.youtube.com/watch?v=ZW_5Y6ekUEw
(3)夜の大晩餐会でのスピーチも(同)、
全てPCで見ることができます。便利な時代になりました。

日本の新聞記事も読みました。新聞によって報道の程度は違うでしょうが、東京新聞は文化・芸能・スポーツを重視しますから、丁寧です。


2. まずは、晩餐会の4分強の短いスピーチの感想です。
(1) 日本語で、「ノーベル賞」という言葉を2回、「Heiwa」と[Nagasaki]も2回、使った。
(2) 91歳の母上(長崎で被爆した由、つまり彼は被爆二世になる)に電話で知らせたときも「ノーベルしょう」と日本語で伝えた。

(3) さわりを東京新聞の訳で紹介すると以下の通り。
・・・・自分の国の誰かがノーベル賞を取ったときに感じる誇りは、自分たちの選手が五輪のメダルを得た場面に見るときに感じるものとは異なる。
自らの民族が他より優れていると誇りを感じるのではない。
それよりも、仲間の一人が人類共通の努力に貢献をしたと知ってもたらされる誇りだ。呼び覚まされる感情は、もっと大きく、調和をもたらす感情だ。
 私たちは今日、民族同士が敵意を増幅させる時代に生きている。共同体が、激しく反目し合う集団に分裂する時代。
このような時代にあってノーベル賞は、私の分野である文学のように、分断の壁を越えて考えさせ、人類として共に取り組むべきものは何かを思い起こさせてくれる・・・・


この短い言葉は、原爆投下時長崎にいたという母親を想い、今年の平和賞をも念頭においての発言であろうと、私は感じました。
頑なに核禁止条約への参加を拒むこの国の政府は顔をしかめて聞いたかもしれません。


しかし、彼はethnicityは日本人だが、nationalityは英国人。日本政府に気を遣う必要も忖度する必要も毛頭ありません。
ethnicityは同じ日本人、そして被爆一世である私は、晩餐会の千人近い招待客の前で「へいわ」という日本語で語りかけた彼の姿に、率直に感動しました。


3. 記念講演(Nobel Lecture)の方は、45分強のスピーチで、とてもいい内容でした。
テキストを車中で読み、帰宅してYou tubeでのスピーチを都合3回聞きました。


ちなみに、ノーベル財団のホームページにはテキスト原文(英語)の他、スウェーデン語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の翻訳が載っています。
中国語も日本語もありません。
残念ながら、この世界はまだまだ欧米中心なのだろうと感じざるを得ません。
村上に限らず、日本人には大いなるハンディキャップではないか。
他方で、もっともっとイシグロのような、国境を越えた「多文化」の日本人が出てきて活躍することも大事ではないか。
そんなことも感じました。


4. Lectureで彼は、45分強のうち前半の20分までは、
(1) 日本での子供時代
(2) 5歳で英国に来てからの英国での、家庭内での純日本語の世界と学校や外界での純英語の世界の対比
(3) なぜ「私の日本」についての小説を2作書いたか、
の3点について語ります。
(4) そして、Japanが18回、 Japaneseが8回、 Nagasakiが2回、言及されます。


5. だんだん紙数がなくなって来ましたので、以下は冒頭の部分をご紹介して終わりにします。

(1) 1979年の秋、ヒッピーのような恰好をした24歳の私は、田舎にある大学院の1年間の創作コースに参加した。
先生の他、生徒は6人、2週間に1度の授業で、そこに『創作』を提出して指導をうけ、語り合う。

(2) それまで、私はロック音楽の歌手になるつもりでいた。
小説は英国を舞台にした2つの短編を書いていただけだった。

(3) ところが、その田舎町で授業以外はほとんど一人で孤独な時間を過ごしているうちに、突然、「私の日本」を書きたいという気持が湧いてきた。
そしてひたすら、日本と長崎について書き続けた。
当時、英国で、海外や外国人を題材にした「多文化」の文学はまったく一般的ではなかった。
しかし、幸運にも私の「小説」を先生や級友たちはとても褒めてくれて、後押ししてくれた。
私はいまもこのことに深く感謝している。このことがなかったら、私はおそらく小説家にはならなかっただろう。


(4) それなら、私はなぜ「日本」についての小説を書こうと思ったのか?
5歳の時から英国に住み始めて、35歳になるまで日本に帰ったことのなかった私がなぜ?
――それは、「私の日本」を記憶にとどめておきたいと考えたからである。(The need for preservation)

それは、第二次大戦直後の長崎、いまは失われた日本、私の幼い記憶の中にだけ生き続ける、ユニークな日本であるだろう。
そして、私の中の「大切な日本」は徐々に薄れていき、忘れられていくのであろう。
(this Japan of mine—this precious place I’d grown up with—was getting fainter and fainter.)
だからこそ、私はそれを書きたい、フィクションの中に留めておきたい、「私の中の日本は、(いまの日本にはなく)、私が書いたここにあるんだよ」、こう言えるだろうと考えたのだ。