京言葉「そうおしやす」と蓼科の風に吹かれて

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  1. 前回、京都小説『異邦人(いりびと)』(原田マハ)を紹介したところ、祇園町会長岡村さんから長いコメントを頂きました。

 

(1)「多くの京言葉に少しの違和感を感じることなく物語に没頭した」とあります。たしかに本書には、

「あんじょう、おしやすか」

「へえ、おかげさんで」といった会話がふんだんに出てきます。

彼はいつも聞く祇園の女将(おかみ)さんの言葉遣いと重ねて読んだそうで、著者が聞いたら生粋の京都人のお墨付きを頂いたと喜ぶでしょう。

 

(2)おまけに、長らく忘れていた言葉まで思い出したそうで、それは、

・「入らしてもろてよろしおすか」という問いに対する、

・「そうおしやす」という応答だそうです。

この小説で「~よろしおすか」の問いは、京都に長逗留する主人公・菜穂の部屋に手伝いの女性が入ろうとして、よろしいですかと声をかける場面です。

菜穂は東京人ですから、「どうぞ」と応じます。

他方で岡村さんは、「そうおしやす」(そうなさい)という受け答えを思い出したというのです。

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(3) そして続けます。

 お茶屋の息子で、花街が嫌いで飛び出してしまった小学校の同級生が久しぶりに会いにきてくれた。

 友人は認知症を病む奥さんの介護をしていて、苦労話を聞いた。

 岡村さんは、小説を読んで、「そうおしやす」という言い回しが妙に懐かしく頭に浮かんだことを話した。

「すると彼が、そんな言葉遣い、ずうっと忘れていたなあ、その本見せてくれないかと言い出したので、驚いた。本など読む男ではなかったのが急に興味を示したのは、花街で繰り返し聞いた言葉遣いで、子供の頃を思いだしたのか、妻を介護する彼を元気づけたのか、次の約束をして大型バイクに乗って帰っていきました」。

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(4)そして岡村さんは、「自分もこの年になってやっと足元のこの地を少しは見つめ直してみようという気になりました」と書きます。

 本書が、老境に入った二人の男性の「足元を見つめ直す」きっかけになったとすれば、原田マハさんも本望ではないでしょうか。

 

2.夏も終わり、当方はまもなく東京に戻ります。当地は私たちも「異邦人(入りびと)」ですが、40年以上も過ごしているので、思い出もたくさんあります。

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(1) この夏も、おかげで緑に包まれ、山を眺めて穏やかに静かに過ごしました。

今はもう秋の気配。蝉や郭公は居なくなり、代わりに見るのはトンボやススキです。稲もだいぶ育ってきました。

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(2) 小学校の秋学期も始まり、朝夕には通学する子供たちを見かけます。

我が家からいちばん近い「泉野小学校」は車で5分ほどのところ。生徒はみな徒歩で、遠い子は山道を何キロも歩くでしょう。厳しい冬の時期はたいへんですが、いまは良い気候で楽しそうに歩いています。

高齢化が進み、休耕地が増えている土地に、当然に若い世代は減っていて、泉野小学校の在校生はいまはたった88人、一学年平均15人弱です。

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(3)それでも立派な小学校で、鉄筋コンクリート3階建ての校舎、1000平米の運動場と25メートル・プールまであります。標高1000メートル、茅野市でいちばん高地にある学校とのこと。

 しかも創立は明治6年ですから、歴史のある学校です。こんな冬の厳しい土地に古くから人が住んでいたのです。

明治の半ば、歌人の島木赤彦も先生をしていました。卒業生には、スピード・スケートのオリンピック選手もいます。

八ヶ岳を仰ぐ泉野小学校も、里山の風景も残ってほしいものです。

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(4)そんなことを考えていた雨の昨日、隣人が突然やってきて、我が家で暫くお喋りしました。

長年、夏だけ当地で会う仲です。同い年で、いろいろと病を抱え病後療養中の身です。

私どもは東京へ、彼は大阪へと別れると来年夏まで会うことはありません。「これが今生の別れかもしれないから、ちょっと顔を見にきた」というので、「それを言うならお互い様。でも出来れば来年も会えるといいね」と返しました。

 

(5) そんなこともあって、岡村さんの友人の話をまた思い出しました。

奥さんの認知症の症状が進んでいる、最近は冷蔵庫から品物を全部取り出して並べる、注意すると興奮して怒り出す・・・・

「そんなときは、なだめてドライブに連れ出すぐらいしかできないんや」と嘆いたそうです。

岡村さんはおそらく万感の思いを込めて、友に「そうおしやす」と応じたのではないかなと想像しています。