「リアルな日々」と「公共的な死」

  1. 前回は、妻が、ITに弱い同世代の仲間と久しぶりに会食をした話を書きました。

(1) 田中さんから、「いろんな意味でリアルな日々が大切だと、コロナ禍で学びました」とコメントを頂きました。

 

(2)岡村さんは、「京都にも観光客が目立って増えてきた。修学旅行の学生姿も見かける。最近は目的地別の小グループで行動するようだ」

 

(3)続けて、「スマホで行き先を検索している彼らをよく見るが、観光バスでの団体旅行ではなく小グループだから、京都市民ともっと会話を持てばよいのにと思った」とありました。

 そして昔、韓国でいかに親切・丁寧に道を教えられたかという思い出を語ります。

(4)確かに、道を訊かれる・訊くという習慣が無くなりました。

私はスマホ検索が苦手なので、今でも道を訊くことがあります。しかし最近は「スマホで自分で調べればいいじゃん」と思うのか、けげんな顔をする人もいます。他方で、自分のスマホから検索して教えてくれる人もいて、逆に恐縮してしまいます。何となく声をかけにくい時代になりました。

 

(5)たまたま図書館で眺めた雑誌の論考に、「ITは便利だということになっているが、それを謳歌して、自由な時間を楽しんでいるかというと、むしろ、本来私たちが楽しむべき仲間との時間や男女で過ごす時間といったものが少なくなってきている」という一節を読み、まさに田中さんの言う「リアルな時間」だなと思いました。

筆者は、小林武彦東大教授、生物学者です。未読ですが、『生物はなぜ死ぬのか』(新書大賞2022第2位)の著者だそうです。

2.「リアルな時間」を味わえるかなと、6月も短期間、蓼科の山奥で過ごしました。

 

(1)れんげつつじの咲くカントリーロードや田植えが終わったばかりの里山の風景を眺めながら走り、田舎家に到着。あとはのんびり、ぐうたらです。ほんの少し畑の草取りもします。

(2)畑を一緒にやっている年下の友人がいて、寄ってくれます、彼らの愛犬「さくら」にも挨拶します。

(3) 小鳥もりすもひまわりの種を食べにやってきます。

今回は、小鳥三羽が並んで平和についばむ、珍しい光景を見かけました。

春ゼミが賑やかに鳴いています。

3.ところで前述した小林教授の一文は、「利己的な生と公共的な死」と題する中央公論6月号特集「老いと喪失」の中にある論考からです。

 

小林先生は述べます。

(1)「生物は、(略)いわば、死ぬものだけが進化できて現存できている」

(2)人間も例外ではないが、異なるのは「老い」が長いこと。「他の生物はほとんどの場合、生殖可能期間が終わると寿命が尽きて死んでしまう」

(3) 「人間の老いは生物学的な問題だけではなく、社会的な問題と密接に結びついている」。

 

(4)「そうであっても、死は避けられないものとして受けいれるしかない。(略)みんなが死んでくれたから、今の私は存在している。だから、最後は私もご奉公として死んでいくのだ」

 (人間は、生まれてくる時は利己的だが)、成長するに従って少しずつ公共的になっていき、最後は自分の権利をすべて放棄し、完全に公共的に死ぬのである」。

4.だからこそ、「すべての人が生きやすい世界を作ること」が必須である、と小林教授は主張します。

(1) ところが、むしろ「ITストレス」と彼が呼ぶような状況が生まれている。

 そして、「ITを含めて周辺環境の変化のスピードが速くなっている、ヒューマンフレンドリーでなくなっている。友達と遊んだり、デートをしたり、釣りやどこかを散策するといったことを時間の無駄だとみなすようになってきている。」

 

(2)小林教授は、こうした「現代的なスピード・効率重視の発想が進んでいけば、残念なことに、人間は100年持たないと私は考えている」と言い切ります。