いつも長いコメントを頂く岡村氏に敬意を表して

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  1. 前々回、東京の赤坂でお会いした京都人について書きました(3月末でしたが、良いタイミングで来られたと思います)。

 その中の一人、岡村さんを今回紹介したいと思います。ご本人の事前了解は得ていませんが、フェイスブックへのコメントからの紹介なので、お許しいただけるでしょう。

 いつも長文で面白いので、ご自身でブログか活字にしたら如何かとお薦めするのですが、そういうことには関心がないようです。

 自分からは発信しない。これもまた人間の矜持の一つかもしれません。

 

  1. 同氏は、祇園置屋の家に生まれ、若くして両親を亡くし、大学卒後長くひとりで海外を放浪し、帰国してからその経験を生かして旅行会社に勤務したと聞いています。祇園育ちのせいもあるのか女性に優しく、人気があって京都女性会の旅行の世話役を長く務めました。いまは祇園の町内会の会長をこれまた長くやっておられます。

 長野県茅野市出身の奥様を先年亡くされ、いまは猫と二人暮らし。私も茅野には縁があるので、亡くなられたときに小学校の恩師がはるばるお悔やみに上洛されたという話を聞いて心に残っています。信州人にはそういう義理堅い人が多いようです。

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  1. しかも東京についても私よりはるかに詳しく、今回の上京でも神田神保町の古い喫茶店「ラドリオ」に寄ったとか(昨年夏はたしか、これまた有名な「さぼうる」でした)、常磐新平愛用の寿司屋で食事したとか、帰洛のお土産には、「銀座たちばなのかりんとう」、新橋小川軒の「レーズンウィッチ」そして三越地下で「ジョアンのパン」を買ったとか、私のほとんど知らない名前が出てきます。

私の場合は東京の土産も喫茶店もあまり知りませんが、岡村さんの広い知識・行動力には感心します。

 

4.それでいて、祇園の知識・人脈や動静などに詳しいのは当然です。

 モルガンお雪の話を聞いた報告のなかで、「いま、礼儀作法がきちんと躾けられているのは花街ぐらいではないか」と書きました。

 早速、コメントを頂き、ある年上の元芸妓さんがいまの芸舞妓の礼儀の無さを嘆いていて、「私たちの頃は電信柱にもおじぎしたもんえ!」と言っていたとあり、思わず笑ってしまいました。

「とはいえ、訪れるお茶屋の女将は玄関先に出てこられると、膝を折って話される」とも書いておられ、いまもきちんとした作法が残っているでしょう。

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5.本もよく読んでおられて、アメリカの黒人問題を扱った本やアフリカの旅行記など幾つか教えて頂きました。

 逆に私が簡単な読後感を載せたカズオ・イシグロの最新作『クララとお日さま』も、上京時に「ラドリオ」で面白く読んだとありました。自分が面白いと思った本を同じように読んでもらえるのは嬉しいものです。

 本書はクララという、人間の友達になるために作られた知能の高いロボットが語り手の物語です。岡村さんはこう書きます。

――「AIロボットがショウウインドウ越しから眺めて、選んでくれる子供を待っている。その光景は日本のペットショップで見る仔犬や仔猫を想像します。

 イギリスでは仔犬等を店頭で売ることはない筈です。・・・捨てられた犬、それを保護する人もいます。その噂を聞いて捨てに来る人もいます。犬たちは捨てに来る人の車の音を聞きつけると迎えに来てくれたと思って外に飛び出すそうです・・・」  

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  1. 岡村さんの読み、すなわち,

・14歳の少女の親友ロボットになるために買われるクララと、ペットショップにいる仔犬とを結びつける。

・そして、クララを売ったお店の店長さんが、捨てられたクララを探して「置き場(yard)」にやってくる本書の最後の場面と、飼い主にいずれ飽きられて保護施設に引き取られる仔犬の運命とを結び付ける。

――こういう発想が私にはなかったので、この岡村さんの読みは新鮮で、想像力の拡がりに感心しました。想像力を持って読む、これが小説の最大の楽しみですね。

 イシグロはそのあたりを実に繊細に書いています。だから鈍感な私は気づかなかったのかもしれませんし、彼の「抑制された、哀切な」文章があらためて心に残ります。

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7.そういえば、先週の国際ニュースの「ニューヨーク情報」で、コロナ禍でペットを飼う人が急増していると伝えていました。

 アメリカでペットショップで売るのは、保護施設から引き取った犬猫が原則だが、不幸な目に遭っている事例も多いので、躾けが必要な場合も少なくない。従ってトレーナーが新しい飼い主に指導する必要があるそうで、そういう事例を報道していました。

 岡村んは、こうも書いておられます。

「イギリスのブリーダーは、一時期日本には仔犬を譲らないことがありました。環境をチェックしたり、飼い主も選んだそうです。店長さんが、最後までクララを気にかけていた気持はそういうことだろうなと思いました・・・」。

今年初めて蓼科で過ごし、「黙浴」と「黙食」をしました。

  1. 前回は、赤坂で、京言葉や祇園の芸妓だったモルガンお雪の話を聞いたことを記しました。京都から参加した講師他の皆さん、「東京は刺激になりますなあ」と言いながら、帰洛されたそうです。

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 私の方は、7日に「刺激的」な都会を離れて、長野県蓼科に移動しました。もっとも滞在中に東京でも「まん延防止~措置」が発動されたので、あわてて明日には帰京してしばらく謹慎するつもりです。

 ということで5泊6日の短期間ですが、昨年11月以来今年初めての山奥暮らしで、気分転換になりました。

 往路の途中、中央高速の釈迦堂というレストエリアには、花桃がいっぱい咲いている花園があって、ちょうど満開でした。花々も春の到来を喜んでいるようです。

 私ども夫婦は高齢者マークを付けた車の運転ですが、天気の良い昼間、できれば平日の空いている時間に走るようにしています。夜間や雨の日の運転は可能な限り避けます。高速道路でもスピードは出さす、追い越し車線に出ることもほとんどありません。

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2 蓼科の山奥は、まだ緑もほとんどなく、寒々としています。早速小鳥がやってきますが、人の姿は見かけず、静かなものです。

 街まで下りてスーパーに入ると多少は人に出会います。そろそろ田や畑の準備が始まる時期で、地元の農家の人々も畑に出ています。

 我々素人もじゃがいもの種イモを買います。今年も友人夫妻と野菜作りをやるつもりですが、老人はそろそろお引き取りで、長女夫婦の手助けがますます大事になってきました。

 種イモを買った足で、今年も利用させてもらう畑を見てきました。所有者がすでにきれいに耕してくれていて、有難いことです。

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3. 4月の初めは、東京だけでなく当地も温かかったようですが、その後、寒の戻りがあり、滞在中は寒かったです。好天には恵まれました。八ヶ岳はまだ雪が残っています。

 1回270円の市営の温泉に入り、馴染みの蕎麦屋にも入りました。

 東京だと外での会食は難しいですが、当地は少し気楽な気持で入れます。

 長野県は累計感染者は3千人強と東京の約40分の1です。かつ、長野市上田市など県北が多くクラスターも発生していますが、山梨に近い茅野・蓼科はきわめて少ないです。

 それでも、感染対策はもちろん厳重で、スーパーに入るときもマスク着用は当然の義務、温泉では連絡先を記入して、検温を受けます。「入浴中は会話を控えて黙浴しませんか」と書いた紙が浴場に貼ってあります。

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4.蕎麦屋でも、その点はきわめて気を遣っていました。

ここにも「黙食」というビラが貼ってあり、

「お食事中の会話が飛沫感染リスクになります。楽しいお食事のひとときをご提供できず大へん心苦しいのですが、当面はお食事中(ノーマスク時)の会話はお控えください」と書いてあります。

 当然の注意書きだなと思って、順守しつつ、妻と二人でそばがきともりそばを頂き、会話は控えて静かに食べ終えました。

 ここは、気分の良いところで、おかみさんも明るく、話も楽しいので普段なら燗酒をつけてもらい(帰路は妻の運転です)、「今年の桜はどう?」なんて会話を交わします。常連の中には私たちの友人もいて、「~さん、来られたけど、愛犬が死んじゃったって嘆いていましたよ」なんて最新情報をここで教えてもらうこともあります。

 ご夫婦でやってるカウンター席8人の小さな店ですから、たまには隣に座った知らないお客同士で話が弾んで、燗酒1本がつい2本、3本となることもありました。

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 5.食べ終わってご夫婦に礼を言い、「またお喋りの出来る日が来るといいですね」、「東京オリンピック、ほんとにやるんですか?」などほんの二言三言、言葉を交わして早々に蕎麦屋を出ました。

 それでも日本人は真面目ですから、こういうルールは皆、きちんと守ります。

 欧米人は、親しい仲間や家族や友人と会話を楽しむことが食事をすることと考えている人が多いでしょうね。会話をせず、黙々と食べる雰囲気には耐えられないのではないでしょうか。

その点、日本人は、ルールを守るという真面目さに加えて、食事中会話を楽しむことにそれほど重きをおかず、おいしいものを食べればいいという人たちが欧米より多いかもしれません。

まだコロナ禍の始まる前でも、外に食べに行って、近くの席に座った夫婦らしき二人がお互いに自分のスマホをいじりながら黙って食事している光景を見かけたこともありました。

 我が家は、食事どきも、飛沫を飛ばして喋ることに精力の半分は使う傾向があるだけに、会話を控えて外食するくらいなら家でいいやという気持になってしまいます。

 それだけに、これではこの時期、飲食店はますます大変だなあと、と余計気の毒に思います。

京言葉で話す大女将とモルガンお雪 のこと

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  1. 東京のソメイヨシノは散りはじめました。「散る桜 残る桜も散る桜」。

1週間前は満開で、3月27日、京都の客人を赤坂に迎え、私も陪席しました。

昨年8月末に下前講師による「床屋談義」と題する話があり、好評だったのでこの日に「続・床屋談義」が実施されたものです。

 今回は、下前講師は「京言葉」について。そのあと、祇園お茶屋「かとう」の大女将加藤裕子さんによる「モルガンお雪のこと」という、豪華二本立て公演でした。

 「イノダ」八重洲店からの出張による珈琲付きの企画です。

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2.まず、「京言葉」について。

(1)「考えときます」と言われたら、「脈がない」という断りの言葉で、それを旗幟鮮明に言わないのが真骨頂、そこから誤解も生まれる・・・・という事例をいろいろ教えて頂きました。

 誤解は昔もいまもあるようで、100年以上昔の有名な、夏目漱石祇園お茶屋「大友(だいとも)」の女将・お多佳さんとの「事件」の話もされました。

約束をすっぽかされたと怒る漱石の態度が、「京言葉を解せぬ、東男の野暮」として当時話題になったそうです。

1915年の3月上洛した漱石お茶屋でお多佳さんに会い、北野天満宮の梅見に誘う。

「暖かかったら」と返事をした彼女に当日電話したところ、「遠方へ行って晩でなければ帰らない」と言われて憤慨する。そんな出来事です。

 

(2)その漱石は、こんな句も詠みました。

――「木屋町に宿をとりて 川向こうのお多佳さんに」にと前書きがあって

   春の川を隔てて 男女(おとこおみな)かな」

 

(3) 彼女は、文芸芸妓として知られ、本もよく読み、歌や俳句をはじめ文章も書き、書画にも優れ、「大友」には谷崎純一郎など文人が多く集まりました。いま、白川沿いに吉井勇の「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流る」の歌碑が立っている、そのあたりにかつて「大友」があり、戦争中の強制疎開で取り壊されたそうです。

これらは、当日やはり京都から来られた飯島さんにお借りした、『祇園の女、文芸芸妓磯田多佳』(杉田博明、中公文文庫)から知りました。

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  1. 「京言葉」は女性の口から出ると、何とも柔らかくていいものだと、加藤裕子さんの話を聞きながら思いました。

「人前でお話しするのは、気恥ずかしおす―――」とか、

「おっ師匠さんのいわはることは、ちゃんと聞くのどすえ」と言った言い回しです。

 

(1)モルガンお雪は、文芸芸妓お多佳さんの2歳下、ほぼ同世代です。

加藤さん&下前さんの大叔母にあたります。

祇園巽橋の近くにあるお茶屋「かとう」は明治から続く老舗だそうで、お雪さんの姉が始めました。

 

(2)お雪さんは1895年14歳で、ここから芸妓になります。

そして20歳のとき、古美術収集と観光で日本に来たジョージ・デニソン・モルガン(あの大財閥J.P.モルガンの甥)に見初められて結婚(「日本のシンデレラ」と大ニュースになった)。

(3) 短いニューヨーク生活のあとパリに移るが、数年で夫が客死(彼44歳ユキ34歳)、 南仏のニースに住むが、戦争の危険が高まり、1938年57歳のときに30数年ぶりに帰国した。

戦争中、戦後の苦難の時期にずっと京都に暮らし、25年の日本暮らしを経て1963年82歳でテレジア・ユキ・モルガンとして死去。生前カトリック衣笠教会の聖堂を寄進した。

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  1. 以下は主に、下前さんに昔お借りした『モルガンお雪、愛に生き信に死す』(小坂井澄、講談社1975年)からの知識です。

(1) 海外では、短いながらも夫とのNYやパリでの華やかな日々、そしてその後の南仏での穏やかな暮らしがあった。家庭教師と合奏でチェロを弾く写真も残っています。


(2) そんな彼女にとって、30年ぶりの日本・日本人はどう写ったか?帰国直後、吉屋信子がインタビューし、雑誌「主婦の友」に「モルガンお雪さんと語る」と題して掲載した文章によると、おぼつかない日本語でこんな応答をしたそうである
 「フランス、ヒトノコト、カマイマセン。ニホン、アマリ、ヒトノコト、サワギスギマス」。

帰国しても、日本語もおぼつかなく、すぐにフランス語が出てしまう日々が続いた。しかし、京都で,親族やフランス人の神父と親しく付き合い、穏やかに亡くなったという。まだ幼かった「かとう」の大女将は、優しかった大叔母を覚えていると言います。

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5.講師の二人から、久しぶりに京都の話を聞きました。

飯島さんからは、『祇園の女』を借りました。

祇園町会長の岡村さんは、帰洛後フェイスブックに舞妓さんの話を書いてくれました。16歳の「仕込みさん」(こういう言葉も初めて知りました)が、「小さくてもいっぱしの挨拶をするのです」。人に接するときの作法や言葉は京都の花街にはまだ残っているのだろうな、「よろしおすな」と思いました。

久しぶりに京都の雰囲気に溢れた贅沢な時間でした。 

京都上賀茂神社の曲水の宴と入選した友人の短歌

  1. 京都にはもう1年以上ご無沙汰しています。

残念に思っていたら、大勢の京都人が下洛してこられました。

昨年の8月、赤坂で下前さんの「床屋談義」と題する講演会があり、好評だったのでその2回目が同じ場所で昨日開かれ、私も何を措いても出席しました。東京は桜満開でした。

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  1. その報告はまずはご本人のブログに譲るとして、私の今回は京都上賀茂神社での「曲水の宴」と短歌の話です。

 曲水の宴とは、平安貴族の優雅な催しで、流れに添って歌を一首詠んで、それを小川に流し、お酒を一献頂くという優雅な趣向。

 これをいまも伝える人たちが京都にいて、毎年4月に上賀茂神社で開かれます。この日詠まれる歌は、一般からも募集します。

 実は2019年には、職場で同期だった某君が応募して、見事に第1位(天)の最優秀作品に選ばれました。

 このときのお題は「山吹」。彼の歌は、

――児を抱きて 撮りし写真の背景に 今なほ眩し 山吹の黄はーー

 選者は永田和弘氏。そして彼は当日の「宴」に永田氏などプロとともに家人として招かれ、袍(ほう)という公式の装束に身をつつみ、式典に参加して、歌を詠み、小川に流しました。地元のテレビでも放映されました。

 大した偉業で、友人にかかる文化人がいるとは誇らしいことです。彼は、そのことは「光栄で嬉しいが、同時にこういう古い文化を継承する試みが、いかにボランティアや寄付をやり繰りしながら守られているかを痛感した」と語ってくれました。

f:id:ksen:20190419075005j:plain3. ここまでは以前のブログで報告ずみなのですが、今回はその続きです。

(1)今年はコロナのせいで行事そのものは中止になりました。

しかし「短歌」の一般応募は実施したそうで、彼が今回応募した作品は、第2位の「地」に選ばれたというメールを貰いました。

お題は「春の雪」。彼の歌は、

――春の雪 消残る(けのこる)街を父とゆき 戦災孤児の 視線にすくみき ――

 

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(2) 本人の弁は、「下の句が今ひとつで、全体が詩でなく、説明文になったと思う」とあり、「短歌は短い形式なので、なんでも表現できるというものではない。今回はちょっと無理だったかな」と反省していました。

それにしても、私のような短歌を作ったことのない野暮な人間からすれば、「第2位」だって立派なもので敬服します。それと、あの悲惨な戦争を多少は記憶する私としては、心に残りました。

 

  1. ということで、最後に私のメールと彼からの返事を紹介します。

私から ――「おめでとうございます。とても良い歌だなと思いました。選者の永田和弘氏好みの歌ではないでしょうか。

 父と歩いているおそらく同世代の少年の姿を、戦災孤児が見つめている。幼い作者はその視線を痛みとともに意識している。その感性が光り、光景00が胸にやきつきます。

 私は、昭和20年6歳で父を失い、あちこち転々として東京に戻ったのは戦後4年目でした。従って自身は「戦災孤児」の姿を見た記憶はありません。ただ、父親と一緒に歩いている同じ年ごろの子どもを見たら複雑な思いを抱いただろうなとは思い、この句の情景がよくわかります。

当時であれば、上野の地下道あたりでの出会いだったでしょうか。それにしても、我々の下の世代には言葉もイメ―ジも想像つかないかもしれませんね」。――

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  1. 以下は、彼からの返事です。

――おっしゃる通り、終戦間もない頃の上野の地下道での記憶に基づいて、一首を試みたものです。

 昭和20年3月10日早暁、深川区新大橋八名川で空襲を受けました、父は在郷軍人でしたから、空襲が始まると家族を置いて持ち場に駆けつけ、業火の中、母が僕(6歳)、妹(3歳)の手を引き、弟(5ヶ月)を負ぶって逃げ惑いました。人波というか人混みというか、ただ押され押されて、池と樹木のある清澄庭園になだれ込んで、幸い奇跡的に生き延びました。さらに昼頃、あの世から僕の名を呼ぶような声を耳にして首を巡らすと、盲目の人を抱えて我々を探している父に出会いました。第二の奇跡です。父は父で、猛火を逃れて大川(隅田川)に飛び込み、近くで溺れている人を助けながら一夜を過ごしたそうでした。

 

 今回の拙詠はその頃のある日の記憶です。通り過ぎる人々にとりすがって物を乞う少年たちが父と一緒の僕を見ると、睨むように見つめるばかりで近寄ってきません、子供ながらに、自分だけが親といることに罪を負っているような、いてもいられない気持ちを持ちました。あの射るような目、目、目を忘れることはありません」――

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  1. 前回、イシグロの『クララとお日さま』を紹介し、小説は想像力で読むと思う、と書きました。

 短い定型詩では、小説以上に想像力が必要でしょう。

 そして、その力を育むには記憶と知識(=記録)が大事だとすれば、戦災孤児の記憶も知識も持たない世代がほとんどの日本人になったいま、この歌を詠んだ作者の想いを想像しろと言っても無理かもしれない。難しい問題だと思います。

 

カズオ・イシグロの『クララとお日さま(Klara and the Sun)』

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  1. 前回、ドラえもんが大好きだと言う、駒場小学校1年生スズメ君の話をしました。

それで思い出したのが、8年前、母校の中学の入学試験に出た理科の問題です。

――「いまから99年後に誕生する予定のネコ型ロボット『ドラえもん』はすぐれた技術で作られていても、生物として認められることはありません。それはなぜですか?理由を答えなさい」――

この問題は、いろんな回答があってもよい、柔軟な思考力を試す出題を中学が出したと言われて、かなり話題になりました。

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  1. いま読書界では、「クララ」と言う女の子の姿と名前をもつ、やはりAI付きロボットを語り手&主人公にしたカズオ・イシグロの『クララとお日さま(Klara and the Sun)』が話題です。

この2つを比較してみると、

(1)クララは、ネコ型ではなく、外見は人間と変わらない。

(2)どちらも、人間の言うことを理解し、話し、読み書きも自由にできる。

(3)クララは、太陽光で生きる。ドラえもんがどら焼きを大好きなのは有名だが、ほかに何をエネルギーにしているかは不明。

(4) クララは、ドラえもんのような超能力(時空を自由に旅したり、万能な道具を取り出したり)は持たない。しかし、人間以上に高い知性をもち、とりわけ観察力と学習能力に優れる。

(5) 役割は似ている。二つとも、人間の相手をし、助ける存在である。

(6) そして最後に、上述した中学入試の理科の問題に戻ると、クララも生物ではない。従って遺伝子を持っていないから、再生能力はない。

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3,ということで、以下はカズオ・イシグロの最新作についてです。

 

(1)彼は長崎生まれ。海洋学者の父が英国に赴任し、家族を帯同し、彼も5歳のときに同行した。そのまま英国に住み、国籍も取得し、小説を書き、『日の名残り』『私を離さないで』などで高い評価を受けて、2017年ノーベル文学賞を受賞。

(2)『クララとお日さま(Klara and the Sun)』は、受賞後第1作。ニューヨーク・タイムズなど英米の新聞4紙に載った書評を電子版で読んだが、概して好評です。

ロスアンゼルス・タイムス紙は、「愛と無私と祈りについての物語で、彼の最上の作品の1つ」と絶賛しました。

 

(3)本書は、主人公であるAIロボットが注目されています。

しかし実はそのことよりも、ロボットの眼で人間と社会を見つめ、理解しようとする、その着想が物語の魅力だと思います。

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(4)近未来のアメリカの地方都市が舞台らしい。語り手であるロボットのクララ=「私」は、AF(友達ロボット、Artificial Friend)を求める人たち用の「商品」として製造された。

「私」は、お店の売り場でジョジーという14歳の女の子に気に入られて、彼女の家に住むようになる。ジョジーは母親と家政婦と郊外の家に暮らしている。「私」の役割は彼女と仲良くなり、かつ病弱なジョジーの健康に気を配ることである。

 

4.という具合に物語が進んでいきます。

(1)イシグロの小説はいつもそうですが、決して「説明」や「答え」を提示しません。

読者も、クララの体験や会話を通して答えを見つけようとします。それには想像力が必要であり、小説を読む楽しみはここにある、と今更のように痛感します。

 

(2) クララはほとんど白紙の状態から「人間」とは何か?を考えていきます。

彼らが、寂しさや幸福感や愛や、憎しみや怒りや、さまざまな感情を関係性のなかで紡いでいく様を学びます。「人間には心があると思うか?」とジョジーの父(母とは離婚した)から訊かれます。       

自らも、人間的な感情を抱くようになり、ジョジーが健康になるために自分がどう助けられるかを考えるようになります。

(3) そして、生きるとは他者との関係性に生きることであり、そこに愛やいさかいが生まれるが、その中で大切なのは他者とともに育んだ「記憶」であると理解していきます。

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5.読んでいて、これはイシグロ自身の経験も投影されていると感じました。

(1) 本書には「in memory of my mother, Shizuko Ishiguro」という献辞があり、 2019年に92歳で他界した母親に捧げられています。彼女は長崎で生まれ、被爆もしました。 

1959年、33歳だった彼女は、「夫の一時期の転勤で、何れは日本に帰国する」つもりで住み始め、結局英国に永住して生涯を終えました。

身近に日本人もいない地方都市で、言葉も文化も風習も気質も異なる英国人の中で暮らしていく、それはクララが「人間」を知っていく過程と似ていたのではなかったでしょうか。

 

(2) イシグロ自身、家では母と日本語で話しながら、一歩外に出れば見知らぬ人々や言葉に出あう。持ち前のしなやかな知性と感性を働かせる。その過程で孤独も感じたでしょう。そして家に帰れば、同じように孤独を抱えつつ、「人間世界」を理解し、溶け込んでいこうと努力する母がいる。

そう思って読むと、彼が本書に「母を偲びつつ」と書き、深い愛情と追憶をもって母に捧げた気持がよく理解できるように思われます。

スズメたちのこと 東日本大震災から10年 

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  1. だいぶ春めいてきました。駒場野公園の小彼岸桜も咲き始めました。

コロナのせいで、ここ1年以上、東大と付属研究所の構内に入れません。

そこで妻と二人の朝の散歩は、代わりに駒場の住宅街を歩いていますが、近くの駒場小学校に通学する生徒たちに会います。黄色い帽子をかぶった1年生の3人組で、男の子1人、女の子2人がいつも一緒です。

中でも男の子が、物怖じせず、明るく・よく喋り、なかなか面白い。

子供たちが歌ったり踊ったりするNHKの番組に、学校の仲間と何度も出たとか、ドラエもんが大好きだとか、いろいろ喋ります。

「黄色い帽子は1年生のときだけかぶる。もうすぐ2年生になるから要らなくなり、妹に譲るんだ。頭の大きさがちょうどいい」と教えてくれました。

数日前に会ったときはかぶっていなかったので訊いたら、「きのうピアノの教室に忘れた」と言ってました。そこから、ママがピアノの先生だという話に拡がりました。

妻は「また、スズメたちに会った」と言って喜んでいます。

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彼らが成人したり、社会人になったりするときの日本と世界はどうなっているだろう?

 もう見届けることの出来ない老人は、何となく未来に不安を感じながら、楽しそうなスズメたちを眺めています。

 ぼんやりした不安は、今月11日が東日本大震災から10年、12日はコロナに襲われてWHOのパンデミック宣言から1年、という時期と関係あるかもしれません。震災から10年がこういう状況なら、コロナの負の影響もあと10年はいろんな形で続くかもしれない。

 

 そしてそのあと何が起きるか?この国は相変わらず「おじさん」の世界だし、気候変動も気になるし、米中対決も心配だし、2045年にはシンギュラリティと言って、「AI(人口知能)が人間の知能を超える」と主張する科学者もいる。・・・私たちの社会はどう変わるのでしょうか?

 

 

  1. 前回のブログで、田中〈美〉さんがフェイスブックで、藤野さんが京都新聞から取材を受けたと記事の写真を添付してくれたと書きました。

 

(1)今度は、従妹が親切にも、「藤野さんって、偉い人なんですね」という手紙とともに、同じ京都新聞の実物を送ってくれました。

「人生には、全く予期できないことが起こるもんだと、今さらながら感じ入っています。

コロナにしても、自然の脅威にうち震えます。私の生きているうちに、もうあんまり恐ろしいことが、起こらないようにと祈るのみです。じゃあ死後はなにが起こってもいいのかと言われそうですが」というメールも彼女から、3月11日の当日に入りました。

「関西は非常事態が解除され、日常の忙しさが戻りつつありますが、会食は全然ありません」。

 

(2)藤野さんは、震災直後、「災害ボランティア支援センター長」として、延べ500人以上の京都からバスで駆け付けたボランティアのリーダーとなりました。いまは、このブログでも度々「紹介している、「放射能汚染の不安を抱える福島の親子を京都で受け入れる団体「ミナソラ」の活動に加わっています。

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(3)その「ミナソラ」が、7日京都の妙心寺で「10年目の11会議」を開催しました。私はオンラインで視聴しました。

代表の林リエさんが司会進行をし、3人のパネリストの他福島からも3人がオンラインで参加し、現状報告がありました。

いろいろの発言の中で、私がいちばん記憶に残ったのは、

 

・代表林さんの,「私たちの活動は微力だけど、無力じゃないと信じてやっている」という言葉と、

・福島のある母親の言葉です。彼女は、母子で3週間の京都への幼稚園留学がどんなに楽しかったを思い出して語ったあと、

チェルノブイリ原発事故では、35年経ったいまも、ミナソラが京都の主婦たちの自主努力でやっているのと同じような事業を国がやっている」と語り、

最後に、「ミナソラが、ずっと継続して遠く京都から思ってくれて、つながっている気持ちが嬉しい。お願いがあるとすれば、皆さんもミナソラと同じように私たちを忘れないでほしい」と訴えました。

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  1. 遥か遠くロンドンでも11日、日本人会などが主催して「追悼のイベント」が実施されました。

やはりオンラインで、現地時間午後2時半(日本時間午後11時半)開始、2時46分には教会で黙とうがありました。私事ながら、在英国の次女の連れ合いも毎年チャリティのピアノ・コンサートを英国と日本で、もう30回以上開いています。

今年はコンサートは開けないので、代わりに大震災の鎮魂のために彼が作曲し・演奏した「Grace and Hop(祈りそして希望)」が映像のバックに流れました。

https://www.youtube.com/watch?v=rTeRxuW0T5s

 

5.老いたる私は、いまは貢献することはほとんどないのですが、福島の母親の言葉に応えて、せめて「思い出すこと。忘れないこと」だけは続けていこうと思っています。

ニューヨークのワクチン接種と「読書は永遠に楽しめる遊園地」

  1. ニューヨーク(NY)在住の昔の職場の友人からメールが来ました。f:id:ksen:20210305133544j:plain

(1)「コロナワクチンの第1回接種に行ってきました」とあります。

「良くオーガナイズされており、待ち時間もなく、流れ作業で30分程で全てが終了した後、アレルギー等の副反応に備えて20分様子を見た後解放されました。注射箇所に痛みがありますがそれ以外に違和感はなくほっとしました。

予約に手間取りましたが接種自体はスムーズで、看護婦さんを始め受付係、アドミニストレーションの人々が親切で、リラックスして受けることができました」

 

(2) また、「バイデン大統領は「5月には18歳以上の全国民はワクチン接種できる」と言明しています。NYでは国籍などは問われず、住民であるかNY州内で勤務していることを証明できれば無料で接種することができます」ともあります。

 

(3)他方で、BS国際ニュースでは、NY市内の低所得者層が多く住みコロナ感染の中心地であるブロンクス地区で,「ワクチンお助け隊」を行うボランティアのNPO活動を紹介していました。

 アパートを戸別訪問して、接種の説明や予約の手伝いをします。

 それだけでなく市と連携して自分たちで,特設の会場を用意し、看護師を雇い、主に貧しい高齢者の接種を行います。

「ワクチンのスーパーヒーロー」と称賛される代表者は、「貧困に悩む人、インターネット環境がなく自分で予約の出来ない人、英語が得意でないラテン系の人が多く住んでいる。彼らを助けたい」と言っていました。 

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2.ボランティアの協力が大事ですね。市民が行政と連携して動く。

この大切さは2月14日ブログで紹介した台湾のオードリー・タン氏も強調していました。

 日本では市民と一緒にやろうという文化が、そもそも行政にあるでしょうか?

 ボランティアと言えば、京都の田中(美)さんが「藤野さんが3日の京都新聞に取り上げられた」と教えてくれました。

 彼は東日本大震災の直後にボランティア活動に乗り込みました。私は彼が活動を終えた2年後の2013年に連れられて、初めて妻と被災地を訪れました。

「何も出来なくても、ただ行くだけで立派なボランティアです」という彼の言葉に励まされて、南三陸気仙沼、大島などを一緒に回りました。

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 田中〈美〉さんは宇治市出身の京都府会議員ですが、一昨日届いた「議会報告」を拝見すると、「2~3月と学生のインターンを受けいれて、宇治にある巨椋池の「水辺づくりプロジェクト」に関わっている」そうです。

 私が13年勤務した宇治市にある唯一の大学の女子学生も1人参加していて、彼女の「活動報告」も載っていました。昔は私も,ささやかながら、まちづくりや「町家塾」や「元気人の支援」に取り組んだだけに、草の根の市民・若者が社会を支えていく姿を嬉しく読みました。

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3.上に紹介したNYからの友人のメールは、私が日本語の文庫本を彼女に送ったお礼でもあります。

  毎日新聞が「この国はどこへ、コロナの時代に」という記事を連載しています。たまたま 2月19日は小説家の浅田次郎氏への取材でした。

 

(1) 同氏は、コロナ禍の前は、国の内外を問わず、1年の3分の1を取材や講演会などに飛び回っていた。

 

(2) ところが69歳のいまは「できる限り、家から出ないし、人とも会わない。「自宅には家内がいるだけで、完全に孤立状態ですね」

(3) そんな浅田さんが唯一、定期的に出かける場所が書店だ。神田神保町にふらりと出掛け一日を過ごして帰ってくる.

(4)「自粛生活でのフラストレーション全部収めて、余りあるのが読書です。極端に言えば、本さえ読んでいれば何がなくても困らない」。

 

(5)また、外界からの刺激に乏しい今だからこそ、とりわけ小説を読む行為は特別だ、とも言う。

「小説は何かを教えてもらうものではなく、読み進めながら想像を膨らませて別の世界で遊んでくるもの。ですから、私にとっては永遠に楽しめる遊園地です。小説で養った想像力は人生に必ずや有効なはずで、ひいては社会の礎になると思っています」。

 

(6)「それは、混沌たるコロナ後の世界も豊かにするだろう」とは記者の感想です。「私」ではなく「私たち」。他者への想像力を与えてくれるのが小説、ではないでしょうか。f:id:ksen:20210305123139j:plain

4.この記事を読んで共感し、巣ごもりの時期、とくに海外にいる日本人はなかなか手に入らない日本語の本を読みたいのではないかなと思い、手軽な文庫本を送ることにしたものです。

 妻も同じく首都ワシントン郊外のメリーランド州にある高齢者用のフラットに住む大学時代の友人に同時に、同じ文庫本を送りました。

 読書は人によって好みが違うので、選択には迷いますが。

 私自身は、カズオ・イシグロノーベル賞受賞後第1作『クララとお日様』(“KLARA and THE SUN”)を買ってきました。

 邦訳と原書とが3月2日に同時発売されたという触れ込みで、渋谷の丸善ジュンク堂に両方が平積みになってあちこちに並んでいます。

 原書はペーパーバックですが、邦訳は装丁も立派なハードカバーです。その代わり邦訳は500円高いので、安い方を買ってきました。