ksen2006-04-08



3月29日付け十字峡さん、31日付け元会社員さん、コメント有り難うございます。

十字峡さん、私たちの若い頃の知的リーダーとして輝いていた丸山真男に、関心を持って頂ける若者が1人でも居ると思うと嬉しい限りです。


元会社員さんの問題提起について、今回は、ご指摘を頂いて私なりに考えた補足になると思います。こういう貴重な機会を得て、まことに感謝しております。


「(学問を)やっている本人だけは、人からどう思われようと、その意義を確信していなければいけないのではないかと思います」或いは「それが、学問をやる人の説明責任だと思います」についてですが、以下長くなって恐縮です。


1. この点について、私もまったく同感です。ただ、「「学問の意義」と「役に立つ」とは同じだろうか?」「その場合の「役に立つ」とはどういうことか?」考えると難しいですね。確かに学問をやる人が「説明責任」を怠っているのかもしれません。その点は反省の要がありますが、例えば『コトラーマーケティング入門』は役に立つかなと思っている学生に、『日本の思想』(丸山真男)や『プロ倫』(マックス・ウェーバー)を学ぶのも、或いは『中原中也詩集』や『ペスト』(カミュ)を読むことも「役に立つ」のだと説明するのは(価値があるということは理解してくれるでしょうが)なかなか難しいものがあります。


2. それと,時代の風潮があります。『丸山真男の時代』で著者・竹内教授はこう書いています。

・ ・・「法学部的知と文学部的知も解体しつつある。(略)従来の法学部が(実定法中心の法科大学院に格上げされることによって、文学部的知との接点が切断されてしまった。他方、文学部的知も、大衆教養主義の没落によって急速に、解体と変容を余儀なくされている。国際教養学部や国際文化学部などのような四文字以上の学部に改組した文学部も少なくない。名称は文学部のままであっても、従来の史・哲・文の学科や専攻フレームを改編した文学部も多い。文学的知の実質的な崩壊である]・・・・(P.315)


3. 竹内さんの言説には異論もあるかもしれません。ただ、世間から「役に立たない」と思われる学問が、人文科学・社会科学の分野で肩身が狭くなっているという現状は否定できないと思います。
もちろん、だからと言って、当事者が「役に立たない」と思ってしまってはいけないのでしょう。この点は元会社員さんご指摘の通りでしょう。


4. 但し、「役に立たない」学問をやっていると口にする人間は実は、心の底では「役に立たない学問こそ本当の意味で役に立つ」と信じているのではないか?という気もしています。
  これはいわゆる、「リベラル・アーツ教育」という難しいテーマになるので紙数が尽きてしまいますが、数年前に、米国ナンバー・ワンの「リベラル・アーツ・カレッジ」と言われるアマースト大学同志社大学創立者新島襄の母校)を訪問したときに、いろいろ考えさせられたことでもあります。ここでは学部生はいまでも、ラテン語を学びます、そのことにどういう意味があるのか?ラテン語は果たして「役に立つ学問」なのかどうか?
たまたま、前にも書名だけ触れた『ラテン語の世界 ローマが残した無限の遺産』(小林 標、中公新書)を興味深く読み終えたところです。著者は現在大阪市立大教授だそうですが、いまどき日本にこのようなラテン語碩学がいるということに何やら感動しながら読みました。

長くなりましたが今回はこの辺で。