natcoさん、コメント有難うございます。ご指摘のとおり、「一神教VS多神教」という切り口が、塩野節のさわりの1つでしょうね。


ところで例年のこととはいえ、京都は暑いですね。
先週は、その暑い京都に残って、夏休み前最後の仕事をしました。
メインは学生の採点・評価です。11日(金)が締め切りなので、無事に教務課に提出して、そのあとしばらくは一斉の夏期休暇に入るので、脱出してちょっと涼しい信州の田舎にやってきたところです。


といってもまだ、しばらくは病院通いも入っているので、あまりゆっくりも出来ません。


検査入院中の話にもどるのですが、写真は前々回とおなじく東大病院の11階から撮ったもので、写っている洋館は、旧岩崎邸。「戦後の財産税の物納によっていまは国家の財産になって」おり、「邸内ぜんたいが司法研修所としてつかわれて」いるそうです。


病院で読む本のひとつに、初めて読むほどのエネルギーが要らないという意味で再読もいいと思います。
私の場合、入院している場所がらということもあって、司馬遼太郎の『街道が行く37本郷界隈』を読み返しました。

この中に、旧岩崎邸も出てきます。本郷台の東縁にあり、三菱会社を創設した岩崎弥太郎(1834~85)の家で、明治の代表的な西洋館が、戦災にもあわず、いまに残っています。


大阪出身の司馬遼太郎は『街道をゆく』シリーズの中で、東京は、赤坂・本所深川・神田、そして本郷を取り上げています。

『本郷界隈』に関していえば、旧岩崎邸の歴史と持ち主の変遷も興味深いエピソードですが、旧前田家の上屋敷だった敷地が、まず「お雇い外国人(フェノロサ、モース、ベルツ等々)」の居住地としてつかわれ、それから東京大学になっていく過程や、明治時代このあたりの住人だった、鴎外・漱石樋口一葉などの文学者にも触れていて、おもしろく読みました。


ちなみに司馬遼太郎の認識によれば、明治時代の東京とくに本郷の存在とは、以下のようになります。
「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になり、同時にそれを地方に伝える配電盤の役割を果たした。
いわば、東京そのものが“文明”の一大機関だった。そして、とくに当初は、配電装置をさらに限っていえば、本郷がそうだった。」