柳居子さん、コメント有難うございます。

07年12月12日付け「高学歴の無駄・無視・無策」も拝読しました。

「質の悪いものまで大卒のレッテルを貼ってくれる学校もたくさんある・・・」
「壮大な無駄遣い」
「大学の価値観、存在理由の原点を洗い直す時期が来ている・・・・」


何れも、尤もな指摘で、反論するところもありません。大学が多すぎるのでしょうし、進学率50%というのは、行かなくていい若者まで通っているということでもあるだろうと思います。


ただし、まあ大学に籍を置いている人間が多少とも弁護する気持ちになるとはお許しいただきたいのですが、こんな風にも考えています。

1. そもそも、いまの大学は「大衆化」しており、学生はエリートでも何でもないし、本人たちもそう思っていない。


2. それなら何の意味があるか?大学生活の間に、実社会に出たら得られない「ハンドルの遊び」というか「余裕」の時間があってもよいのではないか。
例えば、卒論のテーマに「格差」や「ワーキング・プア」を取り上げる学生が増えているように思いますが、大学中にそういうことを自分の頭で考えるという経験、あるいは私がしつこくしゃべるので、カンボジアの児童買春を無くすことに「自分の人生を賭ける」と言っている26歳の日本人女性のことを知り、彼女の話を聞くという機会(必修の授業だから仕方なく出席するにせよ)・・・こんなことに多少の意味があるのではないか。

3. 講義で学ぶことはすぐ忘れてしまい、身につかないだろうが、少人数のゼミ(演習)で、学生同士や教員と身近に触れ合うことから、何か得るものがあるのではないか。


4. 少なくとも、必修の卒業論文で、幼い文章であっても自分で調べ、書き、教員の個々の指導を受け、作品を残す・足跡を残すということに意味があるのではないか。



また例えば、本学には、硬式はありませんが、軟式の野球部があって、毎回、全国大会に出場します。もちろん、マイナーな大会で、出場校の数も少ないのですが、それでも、野球部のメンバーにとっては晴れて全国大会に出ることはたいへんなチャレンジであり、思い出でもあり、必死に練習しています。


今年の大会は、今月始め、富山で開催され、本学野球部は、3回戦まで進み、そこで昨年の優勝校に0−3で負けました。


彼らにとって、いい経験・いい思い出になったと思います。
遠征費用は全て自費で、ささやかなカンパをしたせいか、昨年のキャプテンだったゼミ生から、メールで報告が来ました。


なぜか、私のゼミ生には、この野球部メンバーが多く、今年も3人。昨年出て、今年は引退した4回生が、3人います。

野球をテーマに取り上げながら、日米のビジネスや経営の比較を考えるということを、ゼミでやっているせいかもしれません。

というようなことを、また「イノダ」の朝、いろいろとおしゃべりをしたいものですが、あいにく、しばらくご無沙汰しております。


8月8日に春学期の成績評価と採点を終えて事務に提出をして、一段落。

今週1週間は、大学もいっせいの夏休みに入ります。

それが終わると、私個人は、海外出張が入っているのですが、その話はまた後日に。