私にも「政治の季節」がありました

週末は田舎に居て、東京や関西から遠路来てくれた友人たちに会って楽しかったです。

彼らも楽しんだのであれば、よいのですが。(写真掲載は事後承諾でご免なさい)


中高・大学と一緒だった旧友とは久しぶりに会い、ともに学んだ、
丸山真男さんの講義の思い出話をしました。


あの1960年6月15日、全学連のデモが国会内に入り、樺美智子さんが亡く
なった悲劇をうけて、学内が騒然とした雰囲気の中で、国際法の某教授が、
抗議のデモがあるから休講にするという学生に迎合的な態度をとったこと、
行政法田中二郎教授が、いつも通り講義を休まなかったこと、など思い出を語りました。

あの日、そしてそのあとの樺さん追悼のデモに参加した私にも、かって「政治の季節」が
あったのだなあとあらためて思いました。


総選挙当日まで1週間を切りました。

どこの新聞も、「民主圧勝の勢い」という予想を載せています。

選挙関連のコメントで私が面白いと思ったのは、「日経ビジネス」8月3日号の
竹中平蔵氏による「民主、公約不履行のすすめ」と、日経同18日の「大機小機」と
いう匿名のコラム欄の「民主党は豹変を」という文章です。

前者は・・・・「もちろん、総選挙に向けたマニフェスト政権公約)などの中身
に従って、実際の政権運営をしていくのが最善である。ただ、それに縛られて、
にっちもさっちもいかなくなるくらいなら、不履行も厭わないくらいの柔軟性を
持っていた方がいい」


後者は、「マニフェストに掲げた多くの政策をどこまで取捨選択できるかが
政権持続のカギだ」「非現実的な公約はいくらでも先送りすべきだ」としています。


その際、何を「捨てるか」についてコラムは、例えば「外交の基本路線の継続は
世界の常識、と堂々と主張すべき」とし、他方、何を優先的に「取るか」について、
「中核は行財政改革だ。個々の補助金を追求すれば、それと結びつく利権との戦い
になる。これを国会で徹底的に洗い出し、大幅に減らせれば、民主党への信頼度は
格段に高まるだろう」と言います。


まさに「政治は可能性の技術」という理解からすれば、納得できるように思い
ますし、行財政改革が中核という主張にも賛成です。


ただ私としては、現実政治よりも、この時期、もう一度「丸山政治学」に
立ち戻りたい(もうひとつ、選挙には関係ありませんが、これは研究テーマとの関連
で「大塚史学」にも)という気持ちが強く、「講義録“1960年政治学”」
に続いて、「日本の思想」(岩波新書、1961年)を再読したところです。



そして以下のような言葉に、再び傍線を引いております。


「たとえば西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、
民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰り返し「問わ」れ、
真正面から論議されている状況は、戦後数年で「民主主義」が「もう
分かってるよ」という雰囲気であしらわれる日本と驚くべき対照をなしている」
(P.16)

「民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、
そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論
よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の
意味がそこにあるわけです」(P.156)


「民主主義は(略)、非政治的な市民の政治的な関心によって、また「政界」以外の
領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言では
ないのです」(P.172)


「どうして権力を直接目的とする活動だけが政治活動なのか。どうして学問や
芸術といったそれ自体非政治的な動機から発する、いわばいやいやながらの
政治活動があってはいけないのでしょうか」(P.173)


「芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に
価値がある」(P.178)


これに対して、「政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。
政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません」〔同〕



そして、文章はこのあと、あの有名な、分かりにくい、かつきわめて誤解されやすい、
しかし感動的(と私は思う)宣言で終わります。

現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル
(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつく
ことではないか」


解釈はそれぞれに任せて、私の文章も今回はさまざまな引用だけで終わります。