村上春樹『1Q84 』を読む・その3(独断かつ僭越に)

このブログを覗いて下さる方のうち、村上春樹の『1Q84』を読んだ人は
殆どいないのではないでしょうか。
いままでにでた3冊の総売り上げが日本だけで3百万を超えるという
驚異的なベストセラーの読者の大半は、子供や孫のような若い世代
だろうと思うからです。

ということで、今回は、読んで下さる方を殆ど想定せず、私個人にとっての
備忘録に重きをおきます。
たまたま、本日から29日まで京都に行き、この間PC環境が不備なので
更新もその後になりそうなこともあって、BOOK3を読んだばかりの感想を
書き留めておきます。

たいへん長くなります。


1. 本書の「BOOK1」(以下1)および 「BOOK2」(以下2)を読んだ感想
は約1年前のブログに載せました。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20090911
および
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20090915


物語のあらすじや「リトルピープル」・・・といったキーワードに多少
ご興味のある方は以下のウキペディアをご参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/1Q84


2.「BOOK3」(以下3)の出たのが本年4月ですが、娘夫婦の蔵書を
借りてやっと読み終えました。


他にもそういう人が多かったでしょうが、私も、昨年5月に同時出版された1&2の
読後、「3,4,5があってもおかしくない」とブログに書きました。


予想通りまず3が出て、しかし、私の想定とはかなり異なっており
(内容を評価する・しないとは関係なく)そのことも書いておきます。


3. 本書を書いた作者の意図はもちろん本人しか分かりません。

しかし、私は、作者の意図とはかなり違うかもしれないが、また、
登場する「リトルピープル」「空気さなぎ」「月が2つ見える世界」
・・・といった謎ときには興味なく、以下のように理解します。

(1) 本書は、「世界を変える」人たちの思考と行動の物語である。
どのような世界に変えるかと言えば、「クローズド」な世界から
「オープン」な世界へ。クローズドシステムとは、その中に入ると
個人が失われるシステムのこと。誤解と批判を恐れずに言えば、たとえば
中国という国を想定してみよう。


(2) 同時に本書は、「世界を変えるには倫理の担い手と行動者と
メッセージの送り手が必要である」とする物語であり、
「麻布の老婦人」と「天吾」と「青豆」がその役割を果たす。


(3) 「麻布の老婦人」は「倫理の担い手」そのもの、「青豆」は
「行動の担い手」、「天吾」は「メッセージの担い手」(彼が、
意図せずして、クローズな世界の存在に関する警告のメッセージ
となった「空気さなぎ」というベストセラー小説の代作者である
ことは象徴的)として存在する。


(4) 少なくともこの3人が、本書の最重要人物であることは誰も
否定しないだろう。


(5) ちなみに「倫理の担い手」という言葉自体は、「いったん自我が
この世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」
というヴィトゲンシュタインの引用として、3の228頁になって
はじめて出てくる。

(6) 「倫理の担い手」について補足すれば、老婦人を評する以下の
会話と、発言者が牛河であることが(おそらく作者が考えて
いた以上に)重要である。

  ・・・「でもたとえ道楽だとしても、困っている人のために進んで何かを
するっていうのはいいことじゃありませんか」と牛河はにこやかに言った
「お金の余っている人がみんな進んでそういうことをするわけじゃ
ありません」

「世のためになることをする人間よりは、ためにならないことをする人間
の方がずっと多いですから」

老人「あんたの言うとおりだ。この世の中、良いことをする人間よりは、
ろくでもないことをする人間の方が数としちゃずっと多い」
・・・・(3の77頁)


4. この点で、ちょっと気になるのが、本書を彩る「エリート主義」
である。


(1) 天吾は、30歳の非常に優れた青年として登場する。
小学校時代から成績抜群で「神童」と呼ばれ、かつ運動選手としても
見事な成果をあげる(3の192頁)。青豆も自立心と克己心の強い
魅力あふれる女性である。
(もちろん、2人とも厳しい環境に育った人間として描かれるが、
それは素質ではなく環境であって、一種の「貴種流離譚」のごときもの)


(2) 「老婦人」は旧華族の家に生まれ、旧財閥の一族と結婚し、
いわばエスタブッリシュメントに属する。


(3) しかも、青豆の空想の中で「自分を護ってくれる」人物として
登場するのは、銀色のメルセデス・クーペに乗った、
上品でお金持ちそうな女性である。

(4) 他方で、「クローズ」な世界に加担し、汚れ役を演じる「牛河」は
いびつな福助頭をもつ実に醜い人物である。


(5) いままでの彼の作品の主人公は我々にとって等身大の若者が多かった
のではないか?
   今回はそうではない。
村上春樹は、「世界を変えるのは(苦難を経て成長する)
エリートである」というメッセージを発信しようとしているのか?



5. 次に、今回読んだ3の展開が想定外と私が思うのは、
(もちろん想定外であっても一向に構わないが、「はぐらかされた」と
いう印象は拭えない)

(1) 語り手がすべて内省的・分析的であり、3では、世界は動かない。
物語は12月になって、月が2つ見える1Q84年が終わるだけ。
かつ、男女の「めぐりあい」に向けて収れんし、作者自身が認めて
いるように、何とも「ロマンチック」(3の534頁)な展開である。
   「世界を変えてオープンにする」には、いったん、このような
「クローズ」な結びつきが必要だと作者は考えたのだろうか?


(2)さらに拳銃のことがある。

チェーホフがこう言っている、物語の中に拳銃が出てきたら、それは
発射されなくてはならない、と」(2の33)
という引用を読んで、誰もが発射される状況を想定するだろう。


ところが3の534頁(ほぼ終わりの部分)になって以下の会話にある
ように、この想定はひっくり返される。


・・・「結局、最後まで拳銃は火を吹かないかもしれない。チェーホフの原則には
背くようだけれど」
「それもかまわない。火を吹かないに越したことはない。今はもう二十世紀も
終わりに近いんだ。チェーホフの生きていた時代とは何かと事情が違う。・・・
世界はナチズムと原爆と現代音楽を通過しつつも、なんとか生き延びてきた。
そのあいだに小説作法だってずいぶん変化した。気にすることはない」・・・・


ここを読んで読者はどう思うか?
私には、ムラカミらしくない「言い訳」のように思える。



6. そこで僭越ながら、私なら、どうするか?どうしたか?

(1) 前のブログにも多少書いたが、私なら(どういう状況でかは
別にして)「拳銃は火を吹く」

(2) そして、BOOK3では、「麻布の老婦人」が語り手になり、
第2・第3の青豆を探す物語にする。


(3) なぜなら、まず第1に、「倫理の担い手」である彼女の「思考」は、
もっと明らかにされるべきだし、次に彼女は、「行動」をここで
やめるわけには行かないからである。(BOOK3の不満は
そこにある。
彼女は行動をやめたのか?それなら世界は変わらない。また彼女の
動機が単なる私怨であって、世界を変えることにないのなら
この小説の魅力は半減する)


(4)最後に、BOOK3が、4、5と続くとしたらどう展開するか?

私なら、1つしか月が見えない世界に生きるしかないのだから
以下のどちらかを選ぶだろう。

・ケースA:天吾の「世界を変える」物語が続く。その場合、天吾がいま
いちばん大事にしているものは何か?書きかけの「空気さなぎ」の続編の
原稿である。これが中心となる物語になるだろう。続編(どんな内容か?)
を出版しようとする天吾側とそれを阻止しようとするグループの戦い。
それはまた、老婦人にとっての最後の戦いになるだろう。


 ・ ケースB:10年後、20年後の物語として書かれる。例えば、サリン
事件の起きた1995年が舞台になる。同時多発テロの2001年でもよい。
天吾や青豆の子供たちである次世代も登場する。クローズなシステムと
リトルピープルの力は再び強まり、戦いは熾烈になる・・・



(5) 何れの場合も「老婦人」は再度、重要な「倫理の担い手」として
登場しなければならない。あるいは、ケースBの場合は、「老婦人」
の後継者が現れるかもしれない。


   私だったら、続編が大ベストセラーになって巨額の印税を手にした天吾が
(ムラカミ自身のように)大金持ちかつ有名人になって、老婦人の遺産も相続し、
かつ続編を書くことで自覚も生まれ、隠れた「倫理の担い手」として後継者
になる(世界を変えるには、多少のお金が必要なのだ)という設定が面白い
と思うのだが・・・・


というような感想です。