京都にて、「社会」と「ソーシャル」の間


1. 拙著に関して言葉を頂き、氤岳居士さん、柳居子さん、
まことに有難うございます。


ご指摘の通り、「失敗事例」について取り上げることはとても大事で、出来ることならやってみたいものです。


ただ、失敗についてどこまで書くか、なかなか難しい面もあります。
他人の失敗をどう受け止めるか、という我々自身の文化の問題もからんでくるようにも思います。
最後には成功した人が、自分で振り返って自らの失敗や挫折について語る、
或いは、フィクションの中で語る、
これなら比較的、やりやすいように思いますが・・・・


2.「社会」という言葉を使うことの難しさ、「色の付いた言葉のように見える」という指摘も、
その通りだと思いつつ、興味深く読みました。

丸山さん風に言えば、いまだに「社会」という言葉を、タテの構造の中でとらえてしまう。
だから、やむを得ず、「ソーシャル」と言い換えてしまう・・・

Societyという英語の訳語として明治以来、「社会」が定着しましたが、福澤は「人間(じんかん)交際」と
いう訳語を当てました。


この点についての丸山真男さんの解説は以下の通りです
少し長くなりますが、引用します。


・・・当時(「文明論之概略」の執筆)まで日本ではパブリックの概念はないのです。
・・・公園の「公」は西洋からの輸入観念です。これは当たり前のことのようですけれど、非常に重要な問題です。
吉田松陰などが、洋学を学んで素朴に驚嘆していることは、孤児院・養老院とか病院というような公共施設が
西洋に発達していることでした。

・・・「人民の交際」というのも、タテの「公」ではなく、ヨコのパブリックの観念を前提として
はじめて生まれます。

・・・福澤は、「ソサイエティ」を、人民交際または人間交際と訳しています。「社会」という観念が、
本来、ヨコの関係としてのパブリックと密接に関連しているのです。日本ではいまでも「国家社会のために」
などと、国家と社会を一緒くたにする用法を平気で使いますが、それ自体が問題なのです。


同じ村同士の付き合いはあるわけですが、そうではなくて、アカの他人との付き合い ――これが「人間交際」
であり、パブリックという観念が出てくるもとになるわけです。
・・・(「『文明論之概略』を読む」上巻83頁)


3. もちろん、「社会」を「ソーシャル」に変えたからといって、それだけで問題が解決された
とは言えないでしょう。


「ソーシャルビジネス」という言葉も、まだ認知度はきわめて低いし、皆さんの意識に定着してはいないし、
将来定着するかどうかも分からない。


たまたま、東京にいて、某大手金融機関の課長さんクラス数人に会う機会がありましたが、当方から
の質問に対して、こんな言葉まったく知らないという返事でした。



ビジネスとソーシャルとには親和性があるという立論も、何となく「うさんくさい」或いは「青臭い」
と感じる人が、特に大手企業のサラリーマン、およびその卒業生(私の同世代を含めて)には
多いのではないでしょうか。

「ソーシャル」と言い換えたところで、まだまだ日本では、なかなか“タテの「公」ではない”
パブリック“という意識は根付かないかもしれない。

道は遥かなり、という感じでしょうか。


4.11月19日(土)、京都にて。
「ソーシャルビジネス町家塾」の講師として、2時間半、受講生と付き合いながら、そんなこと
についても少し話題にしました。


「ソーシャルビジネスの理論」という題目で、拙著をテキストにしながら話をしたのですが、
具体的な解説のほか、メッセージとして、以下のようなことも言いました。


(1)「理論」というと尤もらしいが、社会科学の「理論」はすべて「仮説」であり、事例による
検証が大事である。
(2)「仮説」とは、他人にも納得してもらえるような・拡がりのある物語のことであり、他方で「生きる」
とは自らの物語を紡ぐことである。
(3)だから、受講生皆さんには、「事例」を積み上げることを通して、「自らの物語」を紡ぎ、
「ソーシャルとビジネスとには親和性がある」という仮説を他人に実証してみせる覚悟があるかどうか、
考えてほしい。


(4)もと東大教授の岩井克人さんの言葉についても触れました。

「人間とは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使って、はじめて人間となる存在である」
(『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年)

私たちは、「自ら、どういう言語(物語、と言ってもいいですが)を語るか?」を考えなければ
ならないのでしょう。

そのためには、言うまでもなく、いかに老いても、いかに忙しくとも、「学ぶ」
ことしかないのでしょう。