NY5:ブロンクスヴィル再訪と忘れ得ぬ人たち


1. 加藤さん有難うございます。わこさんの、
   遠く京都から東北への度々のボランティア活動に頭が下がります。
   大げさな物言いではありますが、これからの日本を支えるのはこういう若者の心意気だとつくづく思います。
   「とにかく来てほしい」の言葉は心に響きますね。私も、何事もこの目で見ること・聞くことをいちばん大事にしたいと改めて思いました。


2. 私の方はいつまでもNYに拘っていて恐縮ですが、今回は、昔住んでいた家を再訪し、もとの大家さん(いまはこの家に住んでいます)に再会した記録です。
100%私事の思い出話で、おまけにとても長いですから、他の人に読んでいただくことは殆ど期待しておりません。


30年近く前、NY市外のブロンクスヴィルという町の小さな家を借りて、家族で暮らしました。
駅までは歩くと15分強かかるので妻に車で送迎してもらって、乗るとグラセン(グランド・セントラル駅)まで23分。地下鉄に乗り換えてウォール街まで通いました。

帰りは、残業(ZANGYOO)の悪名で名高い日本のサラリーマンですから、NYでも夜遅くなることが多く、グラセンで乗る直前に公衆電話から「何時のに乗るから」と
連絡して、駅まで迎えに来てもらいます。


ところが時々は、疲れて(あるいは酔いもあって)電車の中で寝過ごしてしまう。
妻は駅で待っていても降りてこないので、仕方なく帰宅してしまう。
携帯などもちろん無い時代ですから、本来降りるべき駅を通り過ぎた別の駅から電話をして、また迎えに来てもらう・・・・というようなこともありました。



3. 今回は約10年ぶりのブロンクスヴィル再訪と、忘れえぬ人との再会。
まったくの私事、個人的な思い出以外の何物でもないが、何とも懐かしい。
春らしくおだやかに晴れた土曜日の朝、駅からぶらぶらと歩きました。
緑や花々はまだですが、気持ちのよい散歩でした。

ブロンクスヴィルは郊外にある、中産階級が多く住む典型的なアメリカの住宅地(アメリカ人はむしろ「ヴィレッジ=村」と好んで呼びます)で、私たちが住んだのは、住民が「シーダー・ノール(ヒマラヤ杉の丘)」と名付けた一角で、NY市内に勤務する人たちが多く住む、静かな住宅街です。


4. 借りて住んだ家はそこでもいちばん小さな、ケープコッド風と呼ばれる造りですが、100年以上経った古い木造ですが、まだ建築当時のままです。


辿りつくまでの街並みは、とにかく静かで、人も車も少なく、おまけに、いちばん印象に残ったのが、塀や垣根がまったくないので、建物が外から丸見えで、開放的。
いまになって見ると、アメリカの基準からすると、さほど豪華な家はなく、平均的な中産階級の家並みというところでしょう。


当時は(良くも悪くも、というか)いわゆる白人しか住んでおらず、一時的な借家人としてではあっても東洋人が暮らすというのは、私たちだけだったでしょう。

こういうところに住むのがいいかどうか、住む家を選ぶときにはずいぶん迷った記憶があります。
勤務先の銀行の庶務課長からもあまり賛成はされませんでした。
・ 駅まで歩くにはちょっと遠すぎるし、買い物も車で遠くに行くしかない。
・ 一軒家にすむ駐在員はまだ少ない頃で、庭の芝刈り・冬の雪かきなど苦労も多い。
・ 公立の小学校へは歩いて行けるが、アメリカ人しかいない。
・ 日本人の駐在員の家族が多く住んでいるアパートのほうが、お互いに何かと連絡をとりあえて便利ではないか。
・ 何といっても、白人しか住んでいない場所で暮らすのは、人種差別にあうことだって覚悟せねば・・・・


5. というような反対論もあった中で、ここに住むことに決めたのは、
・ 妻が車の運転を苦にしないこと
・ ニューヨークに住むのは2度目であり、前から、一度はこういう街で暮らしてみたいと思っていたこと

などに加えて、家を貸してくれるという大家さんがとても良い人のように思えたことも大きく、その点は正解でした。
投資やお金儲け目的で貸すのではないので家賃も格安。銀行の社宅扱いになるので、家賃の上限が決められていますが、お陰で範囲内に収まりました。

結果的にはいやな思いをすることもまったくなく、快適に暮らし、小学校では英語のえの字も知らない娘のためにボランティアの英語教師も現れました。


5.とくに大家さんの夫婦が実に親切で、当時50才代の後半でしたが、付き合って、古き良き時代の・ある種の典型的なアメリカ人の庶民に出会うことが出来て、本当に良かったと思います。
ご主人のほうは、いまは88歳で耳が遠かったり、脚も多少弱っていますが、いまだに車も運転するし、記憶もしっかりしている。


・ 先祖はスコットランドから移住してきた、いわゆる「ワスプ(白人・アングロサクソンプロテスタント)」。
カルヴァンの流れをくむ長老派(プレスビタリン)の信者で、原理主義ではまったくないが、敬虔なクリスチャンで酒も煙草もいっさいやらない。
・ いわゆる「自立独行の人」(セルフ・メイド・マン)で、もともとは船員だったが、その後苦学して大学に通い、博士号(Ph.D)を取って、小さな大学で英語を教え、それだけでは薄給なので、教会墓地の一角に住んで、管理人を努める。
・ 穏やかで、家族を大事にする。生活は素朴で質素で、ぜいたくは一切しない。ぜいたく品も持たない。
・ フランス語、スペイン語など英語のほかに5ヶ国語を話すが、全て独学。
・ 手仕事・庭仕事・家の手入れなどは基本的に何でも自分でやる。
私たちが住んだ家は、彼らが退職後の終の棲家にと購入したものですが、100年経った古い家で相当の手入れを要するが、修理も出来る限り自分でやる。
・家に限らず、古いものを大事にする。家を立替えるなんて夢にも思わず、それ以外も古いものを出来るだけ長く使おうとする。その点きわめて保守的。
・ 元は船員だったこともあって海が好きで、ボートまで自分で作ってしまう。
いま大事にしているのは4隻目の作品だが、修理を要するので目下直しているとのことで車庫を改装した作業所を見せてくれました。

・とにかく、大学の先生というより、働くことが大好きな勤勉な人という印象で、私は「アメリカというのは基本的に“Land of Lobour (肉体労働をする人たちの国)”だ」という、ベンジャミン・フランクリンの言葉を思い出しました。


私のような、当時銀行員で、酒飲みで、夜も遅く、家族をあまり省みない。宗教にもどうも熱心ではなさそう。庭仕事も大工仕事も出来ないし、やらない。
おまけに東洋人・・・。
彼ら夫婦にとって、こういう人種と付き合うのはおそらく初めてではなかったかと思いますが、親切にいろいろと面倒を見てくれ、細々とした家の修理にも来てくれました。
何度も自分の家に招いてくれました。
教会が所有する、これも小さな家に3世代が一緒に住んでいました。

日本で借家に住んだことがないので、日本でもこういう関係が大家さんと借家人との間に生まれるかどうかは知りませんが、私たち夫婦は、これが大家さんとの・普通の付き合いなのだろうと思っていました。

帰国してからも、私は、NY出張のたびに時間を見つけて訪問し、彼ら夫婦は私たちがロンドンに勤務しているときに、遊びに来てきてくれました。


6. 奥さんが、また何とも魅力的な人で、もと小学校の先生をしていたこともあって、お菓子づくりを教えてもらったり、娘たちにも本当に親切にしてくれました。
子供たちも2人が大好きで、息子にいたっては新婚旅行にNYに行き、わざわざ結婚したばかりの妻を連れて、訪問したくらいです。


その奥さんジーン・クロフォード・ウェイアが、数年前に無くなり、ドクター・リチャード・B・ウェイアはいま一人で暮らしています。

今回はお墓参りをしたいと思い、彼の車で墓地に行って、一緒にお参りし、花を捧げてきました。

長年気になっていた墓参が出来て、ドクターとはほぼ半日一緒に過し、
お昼もご馳走になり、当方も何だか、一仕事成し遂げたような気持ちです。
彼も、はるばる日本からやってきたことを嬉しく思ってくれたことでしょう。
おそらくは、これが最後の再会ではないか・・・と思いつつ、別れました。

ブログで紹介するのは2度目ですが、バージニア・ウルフという英国の
小説家の
「生きることの依りどころは、思い出である」(If life has a base, it is a memory)を、
今回も終わりの言葉にします。