シドニーの日本人学校と国際学級の思い出

1. シドニー滞在に間連して、前回はオーストラリアの教育にも触れました。


今回はシドニー日本人学校(Sydney Japanese International School, 以下、SJIS)について少し報告したいと思います。
ここは1969年、生徒数33名で開校、もっとも歴史の古い全日制の海外日本人学校の1つです。

アメリカや中国、バンコック、ジャカルタ等の日本人学校に比べれば小規模ですが、幼稚部・小学部・中学部の他、1975年には国際学級を設立。
国際学級には中学部はありませんが、
日本からの駐在員の子弟の教育の場だけではなくオーストラリア人や日系人の子弟も受け入れ、他の学校にはないまことにユニークな存在です。

私が前任のもと新日鉄の駐在からご指名を受けて2年間運営に関わった20年前であれば、生徒数500名のうち「国際学級」は約100名でした。


2.海外の日本人学校は、「日本の義務教育課程と同等の教育を行う在外教育施設として文部科学省から認定された学校であると同時に」、SJISであれば豪州「ニューサウスウェールズ州の教育省の認可を受けた私立学校です」。

運営は現地の日本人会がボランティアで関わり、教員は日本からの派遣と現地採用との混成部隊です
(同校のHPによると、現在、前者が12名後者18名)。
http://www.sydneyjapaneseschool.nsw.edu.au/Japanese/index.htm


このため人事面や学校運営の難しさもありますが、両者の良さ(日本的な規律とオーストラリアの自主性尊重の教育法)をうまく合わせると、面白い教育の現場にもなります。


特に、この「国際学級」は運営がなかなか難しいです。
当時であれば、日本人学級は文科省の指導要綱に準拠しつつ、国際学級の方はオーストラリアの教育方針に沿いながら、週5時間の日本語の授業があり、体育や図工や音楽は両学級で合同で授業を受けていました。

この両者の、いわば「文化の違い」が教員同士、PTA同士で時に意見の「違い」を生みます。
それは、時に「文化をめぐる戦い(Cultural War)」の様相を呈します。
しかし、毎度書いているように、「違い」の中から(もちろん対話と参加が必要ですが)新しい価値が生まれる訳ですが、そのプロセスはなかなか難しい。

それでも、当時、学校の運営に多少関わり、「オーストラリアに向けて開かれた日本人学校」を理念に掲げて、「国際学級」の存在に本学校の未来を見たい、とかねて考え、伝えてきました。


2. 今回は時間がなくて、残念ながら学校訪問は出来ませんでしたが、
お子さんを通学させている、ある駐在員の方の話を聞いたところ
「素晴らしい施設でたいへん満足しています」
「今は、国際学級の生徒数の方が多いようです」
というコメントがあり、前者のコメントであれば、まさに開校25周年を記念して校舎やグランドの施設拡充に関わっただけに感慨もひとしおでした。
国際学級についていえば、20年前の4対1の生徒数がいまや逆転しているわけです。
もちろん、進出する日本企業の数が、銀行の合併等で減り、その分駐在員の総数も減っていることが大きいとは思いますが、それでも、「国際学級」が順調に発展しているとしたら、私としては、かねてからの夢に沿って動いている訳で、こんなに嬉しいことはありません。


当時であれば、豪州人や日系人の親が子供を「国際学級」に入れる理由としては、
(1) 現地の私立校に比べれば、授業料が安い(日本の政府や企業の助成もあって)
(2) 日本語を学ぶ(中国語と並んで人気がある外国語です)
(3) 「しつけや規律」を重んじる日本的な教育への期待
等がありました。
今はどうでしょうか?

3. もちろん上述したように、今も難しい課題は多いでしょう。
「国際交流」とは言葉は美しいが、現場でそんなに容易なことではありません。
一例をあげれば、当時であれば、複数の豪州人の保護者から「学校運営に透明性が欠ける」という手紙が理事長あてに届いたことがありました。
こういう問題にどう対処するか?


それでも、この国際学級のオーストラリア人の児童たちに出会えたのは懐かしい思い出です。
特に小学部の卒業式の光景はいまでも記憶にあります。
6年間学んだ20名前後の小学生が学校を去ります。
僭越ながら私も挨拶をし、
1人1人が壇上に上がり、校長から卒業証書を受け取ります。
そのあと、全員が一列に並んで、順番に、6年間の思い出を日本語で語ります。
流暢に話す生徒もそうでないのも居ます。
しかし、みんな原稿を見ないで、学んだ日本語を自分なりに披露しようとします。スポーツ・デイのこと、卒業旅行の思い出、宿題の多さに閉口したこと(こういった点が日本的でしょうか?)、日本語劇「鶴の恩返し」をみんなで上演した苦労話、などなど・・・・


隣に座っている校長や教頭の眼がしょぼしょぼしています。
九州の学校から生まれて初めて異国に暮らした教頭先生にとって、決して順調な1年間ではなかった筈です。悩みも苦労も多かったでしょう。
学校の在り方を巡って、時に日本的なやり方を強行しようとする彼に対して、現地採用の教員が対立し、私が現地の立場に立って、議論を戦わせたこともありました。
しかし、教頭先生にとって、今日を限りに去っていくオーストラリア人の生徒たちも、日本人学級の生徒たちと同じように忘れない存在に違いない・・・・・


私は今でも、この卒業式の場面を、長い海外勤務の中でも一番印象深い出来事の1つとして、懐かしく思い起こします。

シドニー日本人学校の発展を心から祈っているものです。