私たちの頭で考える「憲法改正」


1. ブログへ直接またフェイスブック経由のコメント有難うございます。

まず「日本映画史研究家」さん(面白い名前ですね)、貴重な情報に感謝です。
カミュ『異邦人』の翻訳者で旧職場の大先輩について書いた古いブログにコメントを頂き、驚きました。私はコメントを頂いた直後の「本文」で返信するのを原則にしていますが、今回は2011年12月15日のブログにお礼を書きました。


2. 今回は、我善坊さんのコメントには紙数の制約もあり、ご指摘の点(もっともな指摘ですが)を補足する必要があると思い、またまた硬い「憲法改正」の話です。(教科書的な法学の話なのであえて読む方が居たら、ご覚悟のほどを!)

ことは法律論なので、素人談義でなく専門の憲法学者の意見を聴くべき(ただし諸説あるので悩ましいですが)と考えます。


3.まずは、改「正」という言葉への若干の違和感について。
(1)知人からメールを頂き、法務省作成の「日本法令外国語データベースシステム」というサイトを教えてもらいました。
http://www.japaneselawtranslation.go.jp/dict/?re=01
これを見ると「amendment」も「改正」も出ておらず、日本語は「改定」または「改変」英語は「revision」が使われています。
「改正」は憲法だけの用語でしょうか?
そして我善坊さんご指摘のように「大日本帝国憲法(以下「明治憲法」)」は73条に「改正」の言葉を使っています。


ただ、実際には、敗戦後「日本国憲法」が制定されるまで、ただの1度も「改正」されなかった、というのも記憶しておいていい事実です。
(ちなみに、明治憲法73条は「憲法ノ条項ヲ改正スルノ」とあり憲法は「この憲法の改正は」とあること、我善坊さんご指摘の通りです。ただし後者は「マッカーサー草案」英文を直訳したためであり、両者の改正方式に違いはない、と私は考えます。この点は後述する宮沢説でもあります)

3. 次に、我善坊さんが言及された「宮沢俊義教授の8.15革命説」ですが、ご存知ない方も多いでしょうから、ごく簡単に説明しておきます。(宮沢さんの1946年論文「日本国生誕の法理」から)

(1)「革命」という言葉に驚く人も居るかもしれないが、これは「法律学的な意味における革命―8月革命―」であって、それ以上でもそれ以下でもない。

(2)つまり「日本国憲法(以下「憲法」)は、形式的には、明治憲法73条にもとづく大日本帝国憲法改正として成立した」
しかし、憲法のもっとも重要な理念は国民主権主義であり、これは「それまでの日本の政治の根本原理とは、原理的にいって、まったく性格を異にするものと考えなくてはならない」。明治憲法では「天皇の統治の根拠は、民意とはまったく関係のない神意に求められた」

(3)この「天皇が神意にもとづいて日本を統治するという原則は、明治憲法に定める改正手続きをもってしては、変更することができない、というのがほぼ支配的な学説であった」

(4)したがって、「ふつうでは許されないが、特別な理由によって許される」
→その理由を、宮沢さんは、1945年8月のポッダム宣言受諾にある、と言い、「8月革命」と呼ぶ。

(5)すなわち
「8月革命によって、日本の政治の根本建前は、神権主義から国民主権主義に変わった」。
そして「国民主権主義が8月革命によってすでに成立しているという理由によってのみ、明治憲法73条の手続きによるという型式をとった新憲法国民主権主義をとることが、決して違法ではないとされうるのである」。


4. この宮沢説に対しては、反論もあります。
1947年当時の河村又介最高裁判事は反論し、ポッダム宣言によってではなく、「国民主権主義」といる原理は、日本国憲法によってはじめて確立された、という見解である」

これに対して宮沢さんは再反論していますが、ポイントは
憲法改正権について、一定の内容的限界があるか?」という法律的な難問になるので、ますます硬くなりますが、以下に、「憲法改正」についての・教科書の解説(宮沢俊義)を簡単に記録しておきます。


5. まず「憲法改正」とは?
(1)「改正」とは「日本国憲法の各条項に対して加えられる変更を意味する」

(2)この意味の「改正」には、(a)全面改正(b)一部改正(c)増補、の3つの方式がある。

(3)憲法96条にいう「改正」は、これらのどの方式によることも自由である(宮沢説)
ただし「憲法改正権の限界との関連において、全面改正と一部改正とを区別して、前者はその限界を破るから許されないとする見解もある」

(4)もっと本質的な問題として
「96条の改正は、憲法のすべての条項におよぶことができるか?それとも、そこに何らかの限界があるか?」→憲法学者による諸説あり。
この点で「何らの法的な限界はない」とする甲説(前述した河村判事がこれ)と
「限界がある」とする乙説がある。

さらに「乙説」については、憲法改正権の限界は具体的には何か?をめぐってさらに学説が分かれ、
乙の1――もっとも根元的な問題は「主権がどこにあるか?」である。
したがって「前文」を含む国民主権の原理および基本的人権尊重の原理、これらは「憲法改正」によって変えることは出来ない。

乙の2――さらに多くの原理を憲法改正権の限界とする説。例えば、前文にうたっている平和主義の精神からいっても、「戦争の放棄と軍備の廃止は、憲法改正の手続きによっては、改正できない。


乙の3――「憲法改正手続きに関する規定(96条)は、いわば根本規範に直接もとづくものと考えられるから、それを、その改定手続きによって改正することは論理的に不能である。すなわち、憲法改正手続きそのものも、憲法改正権の限界を形成する」


6.紙数の制約でこの程度の解説にせざるを得ません。
以上は50年前の教科書からの引用です。新しい教科書をチェックしていないので新説が出ているかもしれません。また、おそらく現在は上記「乙の1」が通説ではないかと思います。
最後に、何れにせよ学者の意見に諸説あるということで、本当は「最上位の有権解釈」として最高裁判例を通して解釈を出したらよいのに、と考えます。