『アメリカの憲法が語る自由』と日本の「憲法改正」

1. 英国の総選挙も終わりました。メイ首相の思惑が外れてEU離脱の交渉は難航するでしょう。しかしトランプやハード・ブレクジットを支持するか不支持かを問わず、
どちらの国も、2大政党がそれなりに機能して「チェック&バランス」が働いているのは、羨ましく思います。

畑の草取りも多少はしないといけないので、田舎の家に来て古い小さいTVで国際ニュースを見ながら、そんなことを考えています。
残念ながら、こなしの花が例年より早く、もう終わってしまい、れんげつつじや山法師や藤など山の花が咲いています。
畑では、腰が痛くならないように、「こつこつ、ゆっくり」の作業ですが、鶯がのどかに鳴いています。


2. ところで前々回のブログ「トランプの踏み絵」というタイム誌の報道について、いろいろと友人からコメントを貰い、感謝しております。


「「自分達が一番大事にして守らねばならないのは憲法」と言い切って、官僚が
最高権力に堂々と抗する国は羨ましく思います」というコメントがあり、


「過去のアメリカの歴史においては、アメリカ合衆国憲法では許されない奴隷制度や西部開拓でインディアンに対する迫害などがありましたね。今度はしっかり憲法を守り、民主主義の自由と平等を守る模範を示してほしいです」というコメントも頂きました。

230年のアメリ憲法史は、まさに自らの過ちを正していく歴史でした。
例えば、奴隷制度が廃止された後も、最高裁は1896年の判決で、「分離すれど平等」というおかしな法理で公的な人種差別を事実上認めました。
これを明確に憲法違反とした最も重要な「ブラウン事件判決」が出たのが1954年、60年近くかかりました。
太平洋戦争時の日系アメリカ人強制収容の違憲性を争ったフレッド・コレマツは、1944年には敗訴しました。それでも諦めずに戦った彼は44年後に勝訴(強制収容を違憲とする判決)を勝ち取りました。

憲法制定200年を記念した1987年に出版された『アメリカの憲法が語る自由』(第一法規)は、「憲法は過去2世紀にわたって再三、我々の自由を保護し、拡大する可能性を証明してきた」と、エドワード・ケネディ上院議員(当時)が序文で述べます。
アメリカの司法に、政治に、過ちはあった、いまもある。しかし憲法の存在を、徐々に正義を実現し、自由を勝ち取る歴史としてとらえています。


3. 翻ってこの国の現状はどうでしょうか?いまはまだ「日本国憲法」がれっきとし
て存在しています。まずは、それを尊重することが大事だと思うのですが、昨今の報道を読みながら、どうも「改正」先にありきという気がしてなりません。


憲法については過去のブログで何度も触れてきました。
例えば、2013年6月25日、8月13日、15日、23日と4回続けました。
(1回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130625 は憲法9条について
(2 回目) http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130815
は、「アメリカからの押しつけ憲法ではないか」という意見について
(3回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130819
は、アメリ憲法と「修正(amendment)」の意味について
(4回目)http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130823 は「私たちの頭で考える憲法改正」について、それぞれ触れました。


今回はやや雑感ですが、
(1) まずは現行憲法の基本理念(国民主権基本的人権・平和主義)をもう一度再確認することから始めるべきではないでしょうか。

(2) その上で一部を「改正」すべきところがあるとすればそれはどこなのか?なぜなのか?逆に、守るべきものはどこなのか?を議論するべきでしょう。

(3) いまの憲法は「アメリカの押しつけだ」という意見がありますが、この点をどう考えるかは上記2013年8月15日のブログで触れました。

(4) 現行憲法は、少なくとも戦後70年以上定着しています。
対して、明治の大日本帝国憲法は45年の命でした。それよりはるかに長く、私たちの「自由」を守るべき存在だった現行憲法を「押しつけ」と否定する人たちは、
「じゃ君たちは現行憲法の全てを否定するのか?」
「現行憲法の大事なところ、残すべきところはどこなのか?」
「仮に全否定するとしたら、現行憲法下での70年は君にとって何だったのか?アメリカの押しつけで生きてきた人生だったのか?」
さらに言えば「改正すれば、押しつけから解放されるのか?」・・・
と訊きたいものです。

いま議論されている改正「案」は、むしろアメリカ政府にとって大いに満足できるものではないのか?
「改正」後の日本は、引き続き、アメリカの意向を「押しつけ」られた国家になるのではないか?


4. .というようなことを考えています。
もちろん私の友人の中にも「勇ましい」意見の人もいるでしょう。
お互いに冷静に話し合うこと、異論に耳を傾けること、
そして何よりも憲法の理念は「自由」を守ることにあるという価値観を私たちも共有できるか、考えること・・・


私が学んだ中学高校は「自由」を大事にした学校だったのではないか?
そう思って、久しぶりに分厚い「麻布学園の100年」(1995年)を開いてみました。

冒頭に、編纂委員長・田中理事の「発刊の辞」、当時の根岸校長と細川理事長の「刊行に寄せて」が載っており、それぞれ以下の文章があります。


(田中)「・・・軍国主義思想統制の暗雲に覆われた時期においてすらも、麻布に学んだ男たちはほとんど異口同音に「のびのびと自由な雰囲気の中でそれぞれが自己を伸ばすことができた」と語っている・・・」

(根岸)「・・・麻布は、真の意味での「自由」の伝統を持つ。・・・そして〜江原先生の精神と行動が、学園の「自由」の基底に流れているのを感じる」

(細川)「個性ゆたかな人間性を養い、自由闊達な校風のもと、自主独立の自覚を培う精神こそ、わが麻布学園建学の精神であり・・・」


この3人が何れも「自由」という言葉(英語で言えば「リベラル」でしょう)を強調しておられるのを読みかえしました。
コメントを貰った友人たちも同じ学校で学びました。同じ文化を共有したのではないかと感じます、

そういえば来年4月から名前が消える「東京銀行」も自他ともに許す「リベラル」な企業文化でした。
良き学校と職場に恵まれ、良き友に恵まれ、幸せなことです。