『冷泉家八百年の「守る力」』(冷泉貴実子著)を読みながら

1.1週間ぶりの更新でお礼が遅れましたが、さわやかNさん、我善坊さん、南十字星さん、コメント有難うございます。
藤城清治さんのファンのページ」というのがあるのですね。前回触れた影絵のある銀行支店の写真もたくさん載ってます。インターネットのサイトって何でもあるな、と驚きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/lightandshadow7111/28808293.html
 
昔の職場についてのコメントも興味深く拝読しました。
過去については得てして嫌なことは忘れてしまうもので、
「昔は良かった」という言い方は十分注意しなければいけないとは思います。
ただ、職場の雰囲気や人間関係がいまは大分変っているという点は事実ではないか、と思う者です。
そしてその大きな理由に、良くも悪くも、IT による日々の暮らしや仕事のやり方の変化があると思うのですが、どうでしょうか?
最近のホワイトカラーが働く現場を私はあまり知りませんが、全員が机に座ってほぼ終日、PCの画面に向かっている、何だかそういう職場のイメージが湧いてきます。
これが昔といちばん違うのではないか。


それにしても「昔は良かった」という言説は魅力ありますね。百人一首の好きな歌
「ながらへば、又此のごろやしのばれん、うしとみしよぞ今は恋しき」
(藤原清輔)を思います。

2.実は、『冷泉家八百年の「守る力」』(冷泉貴実子、集英社新書)を読みながら、そんなことを考えているところです。
この本とても面白く読んでいます。


(1)冷泉家は「歌聖」と言われる藤原俊成・定家父子を先祖とする「歌の家」で、定家の孫の三男が初代で、現在の25代まで800年続いています。
家にはもっとも大事な場所として「蔵」があり、そこには「明月記」「古今和歌集」などの国宝・重文の点籍などとともに「神さん」としての俊成卿・定家卿が祀られている。
冷泉家のすべてが、この2人の神さんを中心に回っている。
そして「神さんは大事にせんといかん」というシンプルな教えが800年間心の支え、生活の基本ルールになっている、と著者は言う。


(2)また、25代の中で「天才」と言われるのは俊成・定家の2人だけで、あとは「そこそこ」の才能の持ち主だった。
だからこそ、2人の先祖が残したものを「大事に大事にし」、「そこそこ」の感覚を頼りに、「相変わらず」を基本理念にして守ってきたからこそ、800年も続いた・・・・
「その意味では、守る力こそ大事、伝える力こそ文化・・・と思っているのです」と著者は言う。


(3)こんな風に本書は、著書の肉声が伝わってくるような「語り口」、講演をそのまま文章にしたようなスタイルが「新書」という形式に向いていて、読みやすい。しかも、ただ読みやすいだけでなく、以上のようになかなか考えさせられる「メッセージ」を多く含んでいます。


(4)例えばこういう語りもあります
――「なんぼ頑張っても、定家卿の域まではいかない」。だったら、自分は何をするべきか。“己を知る”“分を知る”という教育を、冷泉家はやってきたのです。
世の中、べつに、それほど人と違わなくてもいいのです。人と違うことを声高に言いつのったり、声高にものを言う人ばかりで世間が動いているわけではありません。

また、――「そこそこで、相変わらず」のところに価値を見出すというのは、ほんとうは非常に文化的なことだと思います。文化の深さといいいいますか、大人の文化といってもいいでしょうね。

ここでちょっと私的感想を補足すると、
「Dare to be different !(敢えて人と違う人間になれ!)」をモットーとするアメリカ文化に長く染まってきた私には、とても興味がありました。
もちろん、ここで「違う」というのは必ずしも「人より優れろ」と言っているだけではないと思うので、著者がやんわり批判する(批判そのものには同感しますが)
「人と違うことをして、なんとか一人先んじるのをよしとする世の中」
と必ずしも同一ではないように感じますが、大切なメッセージであることは変わらないでしょう。


やや誤解を招く言い方かもしれませんが、ある意味で、文化は「進歩」とは違う、という価値観と言ってもいいのではないか。

私事ながら、私の実弟は、プロの物書きですが、いまだにPCに一切触らず、原稿用紙に万年筆で文章を書いています。
不便なことは多くあるでしょうが、だからと言って、それで彼の文章の価値(イコール「文化」)が減じるわけではないでしょう。


(5)著者はまた「和」についても語ります。
――自分の人格、自意識を表出していく・・・自分はひとと違うのだということをあくまで主張する、それが「芸術」だとしましょう。
一方、私とあなたは一緒なんです、私とあなたは違わない、という思いを色濃く出してきたのが日本の伝統的な文化です。
たとえば、「春」といえば「うぐいす」。「秋」といえば「紅葉に鹿」。こういう感覚を共有する。私はうぐいすではなくて、ほかの鳥に春を感じるのです、ということをいわないということです。
――「約束」の世界のなかで、どれだけ美意識を磨いていけるか。逆にいえば、そういうなかで提出された美意識をどれだけきちんと受け止めて、心と感性の交流を深めることができるか、これが、自分が、自分が、という形で表現を追求していかなければならない芸術とは違うところだと思います。


と著者は語りつつ、そうは言っても「強制するのも、日本の文化の伝統にそぐわない」とも考えています。

強制ではなく、「ほとんどのことが放っておけばうまい具合に「そこそこのところ」へ落ち着く文化と知恵を日本人は持っている、というのが著者の考えです。

このあたりが、なかなか難しい点だなとは痛感します。
「放っておけばうまい具合に」行くだろうか?
みんなが「そこそこ」で満足する社会へ、が
この国にいま大事なことかもしれません。

3.最後に、著者は「六十歳も半ばになった私の周りでは、いまごろ「百人一首」が流行っている」と書く。老眼の眼で札を探し、おじいさんおばあさんの大騒ぎ。そして最後にみなが言う、「やっぱり、和歌はエエなあ」と。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20130427
私も、ブログにも短く書きましたが最近同じ経験をしたことを思い出しました。