1.今回はもっぱら、京都での茶事を書くつもりでした。
ところが、4日アフガニスタンで人道支援に長年取り組んできた中村哲医師(NGOペシャワール会の現地代表)が銃撃され死亡した、という衝撃的なニュースが飛び込んできました。
そこで、京都でたった1回お会いしただけの中村氏ですが、追悼したいと思います。
10年以上前の2007年5月、中村氏は一時帰国の忙しい最中、宇治市の京都文教大学に来て頂き、私が勤務する現代社会学科(当時)の主催で300人の学生に向けて90分の講演、そのあと少数の教員や学生との交流会に参加して頂きました。印象に残る時間でした。中村さん、あらためて有難うございました。
2. 同氏の活動についてはメディアが詳しく報じています。死を悔やむ声は日本だけでなく世界からあがっています。見事な生き方をした人だったと思います。師岡カリーマ氏のコラムを読んで、とても穏やかだった同氏のことを涙とともに思いだしました。
2007年に大学に来て頂いたことについては、当時のブログで紹介しました。
https://ksen.hatenablog.com/entry/20070526/1180142827
交流会での質疑応答(Q & A)の一部を紹介した文章を以下に再録し、同氏のご冥福を心から祈りたいと思います。
「Q:なぜ始めたのか?なぜ続けているのか?
A:よく訊かれるが自分でもわからない。格好よく言えば、ここで見捨てたら男がすたるとでもいった「見栄」「矜持」か・・・
Q:尊敬する人物、あるいはロール・モデルは?
Q:われわれ、何も行動していない(そのことに多少は恥ずかしいと感じている)人間へのメッセージはあるか?
A:あえて言えば、時代にすりよらないこと、変わらないこと、若い人に寛容である こと、失敗をおそれないこと・・・あとはなにわ節と心意気でしょうか(たしか彼に は、九州の任侠の血が流れています)。
終始、静かな、聞き耳を立てないと聞き逃してしまいそうな低い声で、おだやかに応対して頂きました」。
3.以上、2007年の京都宇治での思い出です。
2019年12月初めは、やはり京都で過ごし、今出川の京都御苑の近くにある親戚の家での、ごく気楽な茶事に出席しました。出席者は連れ合いを含めた身内6人で、いちおう私が「正客」、家人が「お詰め」をつとめたのですが、私を含めて客の中にお茶の作法など知っている人もいなく、無手勝流での茶席でした。
それでも一同でおいしく頂きました。やはり風雅なものです。
――茶の湯における客というのは、本来「一客一亭」。すなわち「一人の客と一人の亭主」です。したがって、原則は「正客以外は喋らない(亭主と問答しない)」、一人目の客以外(連客)は主客の会話を邪魔しない程度に参加する――のが作法だそうですが、もちろん我々はそんなルールは無視して賑やか・なごやかに進みました。
4. 家にはいちおう茶室がつくってあり、ここで従妹が亭主となり、時雨亭文庫という財団法人の事務局の女性が二人、お茶を点て、手伝い(「半東」と言います)をしてくれました。
事務局の人たちは、男女を問わず誰もがお茶の作法はわきまえているそうで、さすが京都と思いました。それだけ文化に根付いている、庶民の間でも当たり前になっているということでしょうか。
あとで聞いたところでは、地元の金融機関に入社すると誰もがお茶の基本を習わされるそうです。そうでないと、取引先を訪問しても相手にされない。
また翌朝会った喫茶店「イノダ」の主は、約束がなくて友人知人の家を訪れるときでも、せんすと懐紙は用意して行く、と言っていました。「まあ、一服いかが?」と言われることがあるからだそうです。
5. 実は、茶席を設けるのはせいぜい年に数回とのこと。いろいろ準備もたいへんでしょう。
この日は炉が切ってあり、夏以来初めてだというので、早速習いたての知識を披露して、「本日は炉開きですね」と知ったかぶりをしました。
もとの職場の友人でお茶の先生がいて、ときどき「遊び」で仲間2人と一緒にお茶を点ててもらいます。
定年直前まで銀行に働いた女性ですから、本人が言う通り「ごく庶民のお茶」です。茶道具に凝ったりする贅沢な茶席と異なり、そこが我々のレベルによく合い、いつも楽しみに参加しています。
今回の「正客」役はさすがに初めてなので、直前にこの先生に会って、いろいろ教えてもらいました。
その際、堀内宗心という表千家の「重鎮」の茶人によるお点前を紹介した本とDVDがあり、これを貸してくれたので何度も見ました。
ご存知の方も多いでしょうが、この本によると、
「茶の湯では、一年を炉と風炉(ふろ)の二つの季節に分ける。夏の間は炉は閉めて風炉を使う。
炉の季節は冬から春ということになっていて、毎年立冬、旧11月8日ごろを目安にして、亭主自ら炉を開く。
他方で、毎年製茶の時期は、夏の初め、茶の木の若葉の出た頃。その若葉をつみ、一度熱を加えて、すぐに乾燥させて水分をぬきとり、約半年保管して、自然の熟成を終えて冬が始まる頃、初めて封を切って使う。
これがちょうど開炉の時と一致する。
開炉はこの新茶口切の季節と重なっているため、茶の正月とも呼ばれる・・・・・」
ということで、上記の「知ったかぶり」になったものです。
6.今回の京都での身内だけの茶席も、堀内宗心宗匠のお点前と異なり、道具も特別に名のあるものではありません。掛け軸も亡くなった叔父・叔母が書いたものを軸にしただけで、値打ちのあるものではありません。
控えの間にある軸は、藤原俊成・定家の二人の姿と歌で、その点では面白かったです。
定家卿のは、新古今にとられた「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という歌でした。
ちなみにこの歌を堀田善衛は、「絵画的といっても音楽的といっても、到底言い尽くすことの出来ない、言葉の解説一つしたにしてもぶち壊しになる、朦朧(もうろう)たる世界の構築」と評します(『定家明月記私抄』)。