小泉発言を読んだり文藝春秋「私はつながりたくない」を読んだり

急に寒くなり周りも風邪を引く人が増えました。八ヶ岳も雪をかぶっているでしょう。これは昨年11月14日の写真です

1. 「海ゆかば」等についてのお2人の3つのコメント何れもたいへん興味深く拝読しました。私が理解したのは以下の3点です。

(1) 人々が歌に抱くイメージは、時代によって変わる
(2) 特に戦争に関わる歌のイメージの変化は、時代によって戦争の様相が変わることの反映でもある。
戦い自体がいかに悲惨であっても、主として兵士だけの戦争であった時代を象徴する『水師営の会見』には、歌の文句とはいえまだロマンがあっただろう
――昨日の敵は今日の友、語る言葉もうちとけて、我(乃木将軍)は称えつかの防備、彼(ロシアのステッセル将軍)は称えつつわが武勇――


(3) 対して、総力戦となり、徴兵されて戦い、市民への無差別攻撃が行われるようになり、原爆や化学兵器が使用される20世紀以降の戦争は、「悲惨」としか言いようがない(本土への無差別な爆撃を経験していないのはアメリカ合衆国だけではないか)。
(4) 特に太平洋戦争中の日本のように「総力戦体制」と「情報を含む国家の統制」が徹底した国にあっては、おおっぴらに「反戦」を言えずに、厭戦を「戦時歌謡」の中で「自嘲」や「諦念」をこめて歌わざるを得ない・・・


ということでしょうか。
柳居子さんに教えて頂いた「軍隊小唄」や「海軍小唄」のYoutubeを聴きながら、流れる映像を眺めながら、そんなことを考えました。


2. いささか暗い話題になってしまいました。
それにしても、ブログを書き、コメントを頂き、Youtubeを開き、様々な情報を検索し、フェイスブックで交流する社会になって、人々の考えや行動は、「軍隊小唄」の時代から、多少とも良い方向へ変わっていくのだろうか、ということも考えます。
不特定多数の人が様々な情報を入手し、情報や感想や「つぶやき」を発信し、それらの情報を交換しあう社会で、「何が変わるのか?それはよいことなのか?」

そんなことをぼんやり考えながら、1つは小泉元首相の「脱原発発言」と、もう1つは
文藝春秋12月号に載った「ツイッターフェイスブック私はつながりたくない」という芥川賞作家のエッセイについて今回触れたいと思います。

3. 時局問題に触れるのは私のブログのルールからは外れますが、今回も問題の内容ではありません。
13日の東京新聞が、「原発「即ゼロ」に」「小泉氏、首相の決断促す」という
同氏の日本記者クラブでの記者会見を1面のトップで報道しました。
我が家は東京新聞を購読していますが、たまたま朝食の席に日経も乗っているので不思議に思ったら「日経が小泉記者会見をどう報道しているかに興味があったので、コンビニで買ってきた」という家人の説明で「面白いことに興味を持つなあ」と思い、紙面を拡げました。
「日経にはまったく出ていない」と家人が更に言うので、丁寧に探すと3面の下の方に小さな囲み記事がありました。確かに見落とすのも無理ない小さな報道です。
写真は両方を載せて撮りました。

そこで興味を持って、翌日世田谷区梅ヶ丘の図書館に行って、読み比べて見ました。
以下簡単ですが、
東京新聞は1面トップの他、4つの紙面を使い、記事だけでなく記者クラブでの「会見要旨」も載せている。
・朝日も同じく1面トップ。読売は4面、産経は2面で、そこそこの長さ。毎日の13日朝刊はたまたま図書館で見付けられなかったが、夕刊に「特集ワイド、どこへ行く小泉劇場第2幕」という大きな解説記事を載せている。

日経の扱いの小ささが、東京新聞の扱いの大きさが、対象的です。
もちろんこれは「良い悪い」の問題ではなく新聞社の判断の違いでしょう。「もっと大事な報道が他にたくさんある」というのが日経の判断でしょう。

私が興味を持ったのは
(1) ここまで報道の姿勢が新聞によって違うというのは、最近とくに顕著になった傾向ではないか?つまり、それだけ日本社会が均一では無くなってきた、世代・階層・男女等によって意見が鋭く対立するようになったことの反映ではないか

(2) 仮にそうだとすると、これからは「新聞の読み方」も変えた方がよいのではないか?

というようなことです。
つまり新聞には悪いけど、1つを定期的に購読するよりも、ネットや図書館で出来るだけ多くの新聞をざっと「読み比べる」。
その上で自分が共感を得ると思う紙面をじっくりと読む。
そんな「読み方」の時代になってきたのかな、という気がします。
もちろん忙しい現役のサラリーマンはそんな余裕は無いだろうが、その場合は、少なくとも自分が頼っている「情報」は、おそらく従来以上に中立でも公正でもないという意識を今まで以上に持った方がよいのではないか。
これは、もともと均一な社会ではない階層社会でもある米英では当たり前で、日本も今や建前でも「1億総中流」は消えて階層社会になっていることの象徴なのでしょう。


脱原発」は東京新聞が一貫して姿勢と打ち出していますが、もちろん日経はそうではない。
「秘密保護法案」についても東京新聞はたびたび1面トップで反対キャンペーンを展開しています。方や、日経の報道はどうでしょうか?
繰り返しですが、「どちらが良いか悪いか」を言っているのではなく、それぞれの情報の「違い」を意識し、自分なりの思考を練り上げていく必要があるのでしょう。


4.「自分の思考を練り上げていく」には、様々な・多様な情報の検索と、自分で考えることが大切でしょうが、
果たして、インターネットとSNSはプラスになっているだろうか?
紹介する紙数が殆ど無くなりましたが、文藝春秋12月号で、芥川作家の藤原智美氏はこの点に懐疑的です。

「検索に限らずネットは、人が主体的に自立的にかかわろうとすることがむずかしい世界なのだ」というのが同氏の認識であり、
同氏は、「ネットに絆となるようなつながりははたしてあるのか?」と問い、
ツイッターにあふれているのは、つきつめると単なる自己愛の羅列にすぎない・・・」
と手厳しい。
「私にも強烈な自己愛があると思うが、それを人前で発散するのはやはり恥ずかしい」
と同氏は続けます。
「いまコミュニケーション・・という言葉を耳にしない日はない。・・・現代社会は、自己と他者とを結ぶことばへの過剰な期待であふれている。だれかが吐いたことばに「勇気をもらい」、だれかの行為に「癒される」ことばかりを願う」
そして「そこでは閉じられた書物という世界で文字と対面する行為は、ひどく時代遅れで無意味なことのようにみられている・・・」つまり誰もが「読書への意欲」を無くしてしまった・・・・と氏は語ります。


本当にそうだろうか?
本当に私たちは、「本」を読まなくなっただろうか?
そもそも、どういう本が藤原氏の言う「本」だろうか?
紙数が無くなり、今回はこんな問いを自分で考えながら終わることにします。