米国最高裁判事は「終身」で「上院」の承認が要る

1. arz2beeさん有り難うございます。ローマ法王についてのご意見、タイム誌もまさにご指摘と同じだろうと思います。ところで友人から、カトリック中央協議会は「教皇」と呼ぶことを要請していると親切に教えてもらいました。「法王」は単純に塩野さんの言葉を真似て使ったのですが、どうも「教皇」の方がよさそうです。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/pope.htm
この「協議会」のサイト、フランシスコ教皇についての情報もいろいろ載っていて面白いです。


2. アメリ最高裁についてarz2beeさんの「土俵際の残る力」とはとても面白い表現ですね。これに刺激されて硬い話ながら少し続けたいと思います。

この問題については度々ブログで取り上げています。最近では、
最高裁裁判官の国民審査に悩む
再びアメリカの司法制度と連邦最高裁
この2本では以下のようなことに触れました。
(1) アメリカには日本のような最高裁裁判官に対する「国民審査制」は存在しない。
(2) アメリカの裁判史上もっとも有名な「ブラウン対トピカピ教育委員会事件」(1954
年)について。
「ブラウン事件」のアール・ウォーレンや現首席判事(日本でいう「長官」)のジョン・ロバーツについて。
そして、なぜアメリカではこのように「判決」に原告と被告の名前を付けるのか?
(前回紹介した、同性婚の合憲性を認めた2013年6月の判決も
アメリカ合衆国対エディス・ウィンザー事件と正式に呼ばれます。連邦政府の法律「結婚防衛法」が違憲かどうかが争われたので、政府が被告になります)
(3) アメリカの司法を特徴づけるのは、「法曹一元化」と「判例法」の伝統である。
(9人の判事の1票差でも多数決で「判決」となり、「判決」が法になる。だから、例えば昨日(1月10日)のNYタイムズ紙は、連邦司法省がユタ州同性婚を禁止する州法を無視して同州での同性婚を認めると宣言したことを伝えています)
(4) 法についての考え方―樋口範雄東大教授の言葉を借りれば
「(アメリカでは)法を語ることは自由を語ることである」
(5) ソトマイヨールというラテン系の女性を最高裁判事に指名したときの、ちょっと感動的なオバマ大統領の推薦演説について。


3. これらを踏まえて、アメリカの最高裁と日本のそれとの違いを再度考えてみたいと思います。
もちろん前述したように「法とは自由(と正義)を実現する手段」という考え方の強弱に違いはあるでしょう。

しかし司法制度と裁判官個人を考えた場合、所詮「人の子」ですから「神様のような公正無私の人格者」という訳にはいかないのは両国同じでしょう。
とくにアメリカは大統領が指名しますから、時の大統領が共和党民主党かで思想的に「保守」か「リベラル」かがかなりはっきり分かれます。
いまの9人の判事は、共和党大統領指名が5人、民主党が4人ですが、思想的には「保守」4人「リベラル」4人「中道」1人と言われています。
従って「中道」のケネディ判事(レーガン指名)がキャスティング・ボートを握ることが多く、重要な判決が「5対4」の僅差で決まることが増えたと言われます。
その上で(両国裁判官の人格識見の問題ではないとして)仮に「アメリ最高裁がすごい」として、両国の違いのうち、
(1)日本でも実現可能ではないかと思われる点と
(2)日本ではなかなか難しいと思われる点
について簡単に私見を書きます。


4. まず3の(1)ですが、
(1)アメリカの最高裁の判事は大統領が指名し、上院の承認が必要です。
これに対して、日本では憲法で「内閣がこれを任命する」(79条)とあり、議会の承認は要りません。その代わり、国民審査を受けることも憲法に規定されています(同)。
(2)アメリカの判事は「終身」であり、「弾劾」以外は自らの意志で(健康上の理由から等)引退することはあっても意志に反して辞めることはありません(史上「弾劾」された事例は無し)。
これに対して、日本では憲法で「法律の定める年齢に達した時に退官する」(同)とあり、「裁判所法」50条で最高裁判事は70歳が定年と決められています。
―――

以上の2点は、もちろん異論もあるだろうが、日本でも制度変更(憲法改正)を考えて然るべきと個人的には考えます。
(蛇足ですが、いまの自民党草案のような「改憲」ではない「改憲」は必要と思います)
(1)の点ですが、「上院」というのは日本では参議院でしょうか?この点は日本の2院制に大いに問題があるという現実とからんで難しい面もありますが、
何れにせよ、議会の承認が要るということは、その裁判官の適格性について事前に広く国民に知られるというメリットがあります。もちろんメディアも大きく取り上げますし(例えば、トーマスという黒人判事をブッシュ・ジュニアが指名した時はセクハラ問題が報じられた)、前のブログで紹介したソトマイヨール判事の時のように、大統領も上院の承認を得るために「なぜこの人なのか?」をきちんと公に発表し、説明責任を果たします。
他方で、日本の「国民審査制」が如何に形骸化しているか?を学者やメディアが議論にしないのが不思議でなりません。あんな制度は無意味と思います。


(2)については、例えば認知症になっても辞めないと言ったらどうするのか?といった反論が出そうです。
しかし、「終身」が保障されている方が信じることを貫く意識は高まるのではないか、憲法制定時よりはるかに長生きになって70歳で辞めてもまだ活躍したいという色気のある裁判官も増えたのではないか。辞めてからも勲章を貰いたい、政府の要職に就きたいなんて思う人も居ないことはないだろう、と凡人たる私などは考えます。


4.最後に、そうは言っても日本ではなかなか難しいという点もあるでしょう。これは司法だけではなく文化の問題と言うべきでしょうが、結論を先に言うと、
(1)は、アメリカをもっとも特徴づける「多様性」と「自由」であり、
(2)は、そこから生まれる・あるいは作られる「物語の力」です。
以下、簡単に補足します。


(1) 言うまでもなく、アメリカでは「多様性」と「自由」が活力の源でもあり問題・
課題の根源でもあります。
それだけに社会問題―同性婚、中絶、銃規制、国民皆保険、不法移民、貧困、人種差別・・・−が先鋭化し、司法に判断を委ねられることも多くなります。
但しこの点で重要なのは、それらが「事実」であるだけではなく、「価値」として記号化され表象化されるという社会の力学です。

ここで日本の話に拡げますと、例えば、同性婚について、日本だって同性愛の人は実は3%から10%近くいるのではないかという話を聞いたことがあります。しかし「多様性」を押さえつける力がアメリカより強いために、目に見える存在やイシューになりにくいのではないか。ヘイトスピーチや未婚の母というような深刻な社会問題もさほど一般に「見える化」していない。


(2) そして「多様性」と「自由」が価値として表象化されるからこそ、「物語」を生みだそうとする力が強く働きます。
実は、このブログに、僭越ながら「テ―マ」があるとしたら、その点であって、飽きもせずに「物語の力」を伝えたいと願っています。
それはアメリカであれば、出来事としての「ブラウン事件」であり、人物としてのJFKバラク・オバマスティーブ・ジョブズ、フレッド・コレマツ、ジャッキー・ロビンソンそしてエディス・ウィンザーであり、日本人であれば、HIDEO NOMOやICHIROです。

いま世界であれば、例えば今週の「クローズアップ現代」で国谷さんがインタビューしたパキスタンのマララ・ユザフザイでしょう(彼女は2012年(タイム誌今年の人)の次点、このブログでも取り上げました)

そして、やはりキング牧師。実は今回は彼を取り上げようと思っていたのですが、次回に回します。