空気・福沢諭吉・トリノとソチの荒川・羽生両選手

1. 我善坊さん有難うございます。全くご指摘の通りですね。
「空気」を吹き飛ばすにはどういう方策が要るでしょうか?
かって福沢諭吉は、私たちが目指すべきは「文明」であり、文明を支えるのは「品性」、それを妨げるものとして以下の3つを痛烈に批判しました。

(1)「権力の偏重」―「下」の者に威張る人ほど「上」にへいこらする、という「タテ社会」。(某・新会長なんていかにもその典型という印象を受けますね)
(2)「怨望(えんぼう)」―権威には弱いけど、その裏腹に、そこまで行かない人間には、足をひっぱる、出る杭をたたく・・・
そして
(3)「惑溺(わくでき)」―冷静で強靭なしなやかさを失い、無智にこだわり、凝り固まり、『アンネの日記』の頁を破るなんていう蛮行に快感を覚える・・・
福澤諭吉死して103年。
彼が一生を賭けてその必要性を説いた「独立自尊」と「文明」には道遠いのでしょうか。

もっとも、悲憤慷慨は福沢がもっとも嫌ったことでもあります。
彼がいま生きていたら、はるかに巧みなレトリックとユーモアで、痛烈に、しかし皮肉たっぷりに、負けた戦さを正当化しようとする輩なんかは「日本古来の侍精神にもとる」と語ってくれたことでしょう。悔しかったら「文明」と「品性」で勝負しようではないか、と。


2.話が変わりますが、前回「オーバーシューズ・カバー」という代物を紹介し、写真も載せました。
「あの写真、どこで?」という質問があったので「アメリカ版のグーグルで検索しました」
と答えました。
「何故日本で見かけないか?雨やちょっとした雪の日でもすごく便利なのに・・」と前回書いたのですが、某氏がフェイスブックにコメントを書いてくれて、
「室内で靴を脱ぐという日本古来の伝統と関係あると思う」という指摘に納得、長年の疑問が解けました。
もちろん、いまオフィスでは靴のままですが、しかし私たちにとって「靴は脱ぐもの」。
対して欧米では、「靴は寝るまで脱がないもの」。この意識の違いは大きいでしょうね。もちろん最近は、靴を脱ぐ気持ちよさ・健康さを分かってきた欧米人も増えているでしょうが、それでも靴は日本人よりはるかに「身体の一部」になっている、だから、雪や雨はその靴をカバーすることで対処する。
詰まらぬ話を長々と、と思う人が多いでしょうが、「日本と違う習慣や考え方がたくさんある」と理解することが大事で、これが「空気」を減らすことにつながるだろうと思います。


3.今回は頂いたコメントの補足で長くなりました。
最後に、そろそろ終わる、ソチ・オリンピックのフィギュア・スケート、羽生選手金メダルに触れたいと思います。

オリンピック、前にいちどブログに書いたなあという気がして古いのを探したら、2006年トリノのやはりフィギュア・スケートで荒川静香選手金メダル(フィギュアで日本初かつトリノで日本唯一の金)について書いたのを見つけました。
海外の報道を紹介したのですが、とくにその時のニューヨーク・タイムズの記事に大いに腹が立って書いたもの。8年前、私もまだ若かったなあと懐かしく思いました。http://d.hatena.ne.jp/ksen/20060225

同紙の署名記事ですが、
アメリカの選手が2位に終わった悔しさもあったのか、どうも意地悪な文章と感じました。
(1) 記事は、「荒川のスケートはまことに優雅ではあったが、オリンピックにふさわしい、卓越した金メダルの演技ではなかった。だから、この試合は、誰が金メダルを得たかよりも、誰が金を取れなかったという点で記憶されることだろう」で始まる。
幾らなんでもこんな品性の無い文章はないだろう。

(2) こんな余計なことも全く書く必要が無い。 ―――「荒川のあとの選手が彼女より低い得点をあげるたびに、彼女がコーチ陣と笑っているのをカメラが写していた」

(3) さらに、多少、こじつけかもしれないけど、荒川選手が「(優勝して)言葉が出てこない」という感想を「通訳を通して語った」という文章にも大いに憤慨した。
わざわざ「通訳を通して」なんて書く必要がどこにあるか。誰もが英語を喋るべきだというアメリカ人の傲慢さではないか、仮にフランス人が母国語でインタビューに応じたら「通訳を通じて」なんて書くか。


とまあ、ブログに書いて怒りました。


4.それから8年、今回は羽生選手が日本唯一の金。
やはりニューヨーク・タイムズは電子版1面のトップで、このところ靖国だのNHKだの百田某だの、嫌な記事ばかりでうんざりする同紙に、久しぶりに日本に関する明るい記事が載りました。
しかも、8年前の記事とは別人の署名記事。
記事は、仙台のスケート場で、3.11の大地震に遭遇したことから始まり、彼のインタビューでの発言で終わります。もちろん「通訳を通して」なんていう無意味な付けたしはない。
記憶に残ったのは、以下のような文章です。
(1)「表彰台に上がっても喜びより、じっと想いにふけっている(musing)ようだった」「3位のテン選手は歓喜にあふれていたが、羽生は控えめだった(subdued)」
(2)「羽生はあの大地震について多くを語ろうとしない」。
しかし、「私の価値観を完全に変えてしまった」と彼は書き、また、トレーシー・ウィルソンという女性コーチの「彼は、あの若さで、あの悲劇を通して驚くべき成熟さを身に付けたのだ」というコメントを紹介していること。
(4) 記事の最後は、こんな風に・・・
「オリンピックの出場が決まったとき、彼は『こんなことが仙台の復興に役立つ訳ではない』と語り、あたかも、『何の貢献もしていない』と恥じるようだった。
しかしいま金メダルを手にして、おそらくは、新しいスタートに立ったと言えるだろう。『たぶん』と彼は語る『これから、何かできることがあると思うんです』」

最後に、これも印象に残ったのは、
「彼を支えた、仙台に関わりのある多くの人たち。その中には、2006年冬季女子オリンピックのチャンピオン荒川静香も居た。彼女は羽生選手がスケートを続けられるように寄付をし、精神的なサポートも続けた・・・」
あまりフォローしていないので、日本のメディアがどう報道しているか知りません。しかしこの記事を読んで、荒川選手のことを思いだし、たしか前にブログを書いたなと探して、今回につながったものです。
8年前の憤慨はまだ収まっていないし、今回も事実とはいえ「2回転倒しての金メダル」なんて見出しに載せなくてもいいと思うけど、
まあ、いい記事を書いてくれたな、という感じです。

それでも最後に嫌みを1つ付け加えると、ニューヨーク・タイムズは、別の記事で女子のキム・ヨナ選手とその判定にかなり長い記事を載せていて、すこし勘ぐり過ぎかもしれないけど、どうも最近、韓国や中国に気配りをしているなという気もしないでもありません。