雪の日に『コミュニティを問いなおす』(広井良典)を読み返す

1.このところ東京都内も2度にわたって積雪。
久しぶりの大雪の日。
日本ではなぜか、「オーバーシューズカバー」を履いて歩いている姿をあまり見かけないような気がするなと、NY時代を思い出しました。
写真のように、靴の上にただかぶせるだけのゴムのカバーで、ごく安いのと取り外しが簡単。サラリーマンは、靴の上にカバーして雪道を歩き、オフィスではカバーだけ外してビニール袋にでも入れておけばいいという簡便な代物。
昔、NYでは、たいていの雪や雨ならこれで通勤したので、いったんオフィスに入ってしまえば、カバーを外して-普段と変わらぬ皮靴(英国の有名な紳士靴チャーチとか)で決めてお客に会うことも出来ました。
今はそもそも革靴自体履かなくなったからかもしれませんが、なぜか日本では見かけないな、と詰まらぬ代物を懐かしく思い出しています。


2そこで雪かきですが、我が家は小さな長靴しか買ってなかったことを理由に、老妻が担当することが多かったのですが、室内に戻って言うのが「通る人がまったく無言で挨拶もない」ということです。
まあ感想として、「東京では見知らぬ人とのコミュケーションは無いんだよ」と応じました。しかし、
「家の前だけでなく、自分が歩く道路の雪もかいているのだから、一言「ご苦労様」ぐらい言ってくれると嬉しい」という気持ちも分かるし、「とくに男性が、全く無愛想で、無言で通り抜ける」と言われると男性の1人として少し残念でもあります。


大都会、とくに東京特有の現象なのでしょうが、老妻とのやりとりから、「コミュニティ」と「都市」という問題を思いだして、今回は1冊の本を紹介したいと思います。
数年前に読んだ『コミュニティを問いなおす−つながり・都市・日本社会の未来』(広井良典ちくま新書、2009年)です。
私が京都で関わっている「町家塾」では塾生の事業プランを何とか成功させたいという思いで、話し合っています。彼等は、元気な若者の農業再生、高齢化し過疎化する地域の活性化、京都に居る・来る外国人との交流、学童保育子育て支援、高齢者支援、地域での物品のリサイクル等々、様々な活動を考えているのですが、何れも「コミュニティ」は大事なテーマになります。
その点で広井さん(千葉大教授)の著書はいろいろと示唆を与えてくれます。

3.同書は、
(1)コミュニティ(以下「コミュ」と略します)を
「人間がそれに対して何らかの帰属意識をもち、その構成メンバーの間に一定の連帯ないし支え合いの意識が働いているような集団」と定義した上で

(2)「生産のコミュ」(会社など)と「生活のコミュ」(家族・地域)」、「農村型」と「都市型」、「地理的」(町内会など)と「テ―マ・コミュ(例えばNPOなど)」とに分け、何れも後者の比重が高くなっているのがいまの日本社会だと理解します。

(3)従って、「都市型の生活コミュ」がコミュニティとして存続するかが大事になっている。そこで原点に帰って「都市」とはどういう存在か?を考えてみようとして、

(4)ソフト・ハードの両面から言えることだが、うちソフト面について「ごく日常的な場面での人と人との関わりのあり方について」、日本の大都市では、世界の街のかなりの部分と根本的に違って、非常に顕著なこととして、以下のようなことが当たり前になっている、と指摘します。


4.即ち、日本の大都市に顕著なソフト面の特徴
(1) 見知らぬ者どうしが、ちょっとしたことで声をかけあったり、挨拶をしたり、会話を交わしたりすることがほとんど見られないこと
(2) 見知らぬ者どうしが道をゆずり合うといったことが稀であり、また、駅などでぶつかったりしても互いに何も言わないことが普通であること
(3) 「ありがとう」という言葉を他人どうしで使うことが少なく、せいぜい「すみません」といった、謝罪とも感謝ともつかないような言葉が限られた範囲で使われること
(4) 以上のような中で、都市におけるコミュニケーションとしてわずかにあるのが「お金」を介した(店員と客との)やりとりであるが、そこでは店員の側からの声かけが一方通行的に行われ、客の側からの働きかけや応答はごく限られたものであること


広井さんは、こういう「人間関係」」を「空気」と言い換えてもよいだろう、とした上でさらに、
「(こういう)見知らぬ者」どうしの関係の希薄さ、あるいはコミュニケーションの不在が、なぜ日本の特徴として際立つかといえば、そのことが、「知っている者どうし」、つまり“身内”における気遣いの、過度なまでの濃密さと表裏の関係にあるからである、」と指摘して、その「落差の大きさ」についてこう結論づけます。


「日本における人と人との関係のあり方の特徴として、「“身内”あるいは同じ集団に属する者の間では、過剰なほどの気遣いや同調性が強く支配する反面、集団の『外』にいる人間に対しては、無視か、潜在的な敵対関係が一般的となる」
続けて、「学校でのいじめの問題などの根にある、どこかの“グループ”に属し、その集団の中でそれなりにうまく立ち振舞っていかないとやっていけないといった風潮も」こういう特徴と重なっている、と指摘します。


5.こういう指摘への反論はあるかもしれません。
欧米だって、大都市では見知らぬ者同士のコミュニケーションなんて東京とあまり変わらないよ、という意見もあるでしょう。
しかし、その点は認めたとしても、著者が指摘する「ウチとソトの落差の大きさ」、この点だけは、その通りだよなと納得する人も多いのではないか。
また、この指摘は別に珍しくもない、という意見もあるでしょう。
私自身もこのブログで、度々、同じようなことを言い続けています。
著者自身も「あらためて説明が不要なほど、ごく自明なことになっている」と認めている。
しかし大事なのは、自明と思われる「ごく日常的なレベルでの、挨拶などを含む「見知らぬ者」どうしのコミュニケーションや行動様式」をそのまま見過ごすのではなく、何とかしようとすること。
そこからしか「都市型・生活のコミュ」の再生はないのではないか、という著者の問題意識は傾聴に値すると私は考えます。


6. 紙数がないので、結論だけにしますが、著書がもう1つ、基本的に重要と考えるのは「普遍的な価値原理の構築」ということです。
これだけでは分かりにくいかもしれませんが、「物ごとの対応や解決が、主として「普遍的なルールないし原理・原則」によってなされる社会」のことで、彼はこれに対して、
「物ごとの対応や解決が、集団内部の「空気」や「個々の場面での関係や調整」によってなされるような社会」を対比します。
そして、どちらの方がより生き難いか?と問うて、後者の「空気を読む必要のある社会」が「ヨソ者」にとって如何に生き難いか、と応じます。

ここが日本社会のいちばんの課題でしょうが、まことに難しい課題でもあります。まずは私たちが、「これが問題なんだ」と意識する必要があると思いますが、残念ながら「空気」の中で気持よく(おそらく無意識であっても「よそ者」を排除したり、いじめたりして)暮らしている人があまりに多いような気がします。

それなら「落差が大きくない社会」とは例えばどんな社会か?
広井先生が自分のゼミの学生の書いたレポートを紹介しており、長くなりましたが以下に少し引用して終わりにします。


「・・・私にはブラジル移民の叔父がおり、大学の長期休暇を利用して、これまでその叔父のところに三度ほど世話になっている。私は初めてブラジルに行った時、「同じ人間なのにどうしてこうも文化が違うのだろうか」と驚いたものだった・・・
 日本から来た私が彼らの中にいてまったく気を使う必要がない。相手が他人だろうが、親しい人だろうが、同じように接し、気軽に話をし、かつ会話がとぎれない。日本でいうところの「空気」が存在せず、他人の目を気にする必要がない・・・ 
 私は日本に戻ってから、日本社会に違和感をもつようになった。違和感というのは、ようは生きづらさであった・・・・・」
こういう経験をした(とくに若い)人は、他にも居られるのではないでしょうか?