ああ皐月と「リバティ」から「自由」へ

1. さわやかな五月、新緑があざやかですね。
ただ早くも真夏のような日が続き、少し眠くなります。
「ああ皐月(さつき)、君は雛罌粟(こくりこ)、我はこっくりこ」と馬鹿げたパロディを考えながら散歩しています。
「ああ皐月(さつき)、仏蘭西の野は火の色す、君も雛罌粟(こくりこ)、われも雛罌粟(こくりこ)」(与謝野晶子)を口ずさみながらと言いたいところです。「雛罌粟」はフランス語で日本ではひなげし或いは虞美人草。 


この歌は定型の調べもいいけど、何と言っても、漢字を実に効果的に使っています。これが「フランスの野は〜、君もコクリコ〜〜」では視覚に訴えてくるものがまるで違ってきます。
同じように、萩原朔太郎のよく知られた「旅上」であれば
ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」云々も、文語体と同時に「ふらんす」という平仮名だから効果が出て優れた詩として愛唱されるのでしょう。
例えばこの詩を
「フランスへ行きたいと思うが、フランスはあまりに遠い、せめて新しい背広をきて、きままな旅にでてみよう」
に変えてしまったら、JRの広告以下である」と指摘したのは水村美苗氏です。
漢語とかなとが共存し、かなにも平仮名と片仮名があり、しかも格調高い文語体が書き言葉としてあった・・・日本語は実に魅力ある言語だと思います。


2. しかし日本語と例えば西欧語とを翻訳によって転換しようとすると、なかなか難しい。
前回、この国の「リベラル・デモクラティック・パーティ」は名前が実態と違うのではないか、「リベラル」嫌いの支持者が党名変更を主張しないのは不思議だ、と書きました。
フェイスブックで教えてくれる人が居て、別に私が初めて言いだしたことではなく、すでに
http://www.bloombergview.com/articles/2015-02-20/japan-s-constitutional-change-is-move-toward-autocracy
アメリカの金融誌ブルームバーグのサイト
で指摘していると教えてくれました。
「The Liberal Democratic Party of Japan (LDP), which is one of the most misnamed political parties in existence」
とあります。「リベラル」という言葉に日本人が如何に鈍感で無理解かに、驚いているのでしょう。
 この点、翻訳の視点から補足すると
(1) リベラルはもちろん、リバティ(liberty)の形容詞ですが、これを明治の日本人は(freedomもともに)「自由」のほか、「自主」「自在」「自得」「寛容」など様々な訳語を当てた。しかし何れも「未だ原語の意義を尽くすに足らず」と福沢諭吉は嘆いた。
 
(2)徐々に「自由」が定着したが、問題は昔から使われていたのは徒然草に、あるお坊さんのことを「よろづ自由にして、おおかた人に従うことなし」とあるように、わがまま勝手という悪い意味の用例が多かった。

(3) この結果、「自由」にはリバティからの良い意味と、伝来の漢語のやや悪い意味とが混在する結果となった。

以上は『翻訳語成立事情』(柳父 章、岩波新書)からの紹介ですが、同書はさらに以下のように続けます。
―――(リバティということばは)西欧の至るところで、人々の心を燃え立たせたのである。東洋や日本にも、圧制に反抗する運動はもちろんいろいろとあった。
しかし、そのことを「鎖」から解き放たれるということだけでなく、積極的に求めるべき価値として、人間の内部にある観念としてとらえることばがなかったのである 
――
ことばは思考と行動を記号化するものであり、「ことばがなかった」とは、観念や行動様式がなかった、明治以前の日本人は「リバティ」や「リベラル」を「生きる価値」として意識していなかった、そしてそれは今も続いているのではないか。
私たちは、「リベラル」に必ずしも意義を見出さない。
それがリベラル・デモクラティック・パーティ支持者の「リベラルの輩」という揶揄にいみじくもあらわれているように感じます。

3.ことほど、翻訳の問題は難しい。
先日、六本木の国際文化会館でカーペンターさんという同志社女子大教授の「文学翻訳にまつわる難問」という講演を面白く聞きました。
彼女は最近では水村美苗氏の『私小説』や『日本語が亡びるとき』の英訳を完成した人で、講演も私たち以上にきれいな日本語でした。
もっぱら「文学作品」に絞ってですが、翻訳がいかに難しいかについて


(1)これはよく話題になりますが、川端康成の『雪国』の冒頭、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」と、源氏物語の英訳等で知られるサイデンスデッカー氏の該当する英文、
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
とを比較したり
(2)自分自身の翻訳の経験で「頑張って、雲水さん」という言葉を、禅宗の修行僧である「雲水」(「行雲流水」から)というきれいな言葉が大好きで何とか訳文に入れたかったが、入れるとどうしても「注」で説明せざるを得ない、そうすると文章の流れ・調べが損なわれる・・・・と悩みに悩んで結局
「Good luck young man !」と訳せざるを得なかった
ことに触れて
(3) 最後に、サイデンスデッカー氏の「翻訳は不可欠なものである。そして翻訳は不可能である」ということばを引用してくれました。


4.最後になりますが、私は最近、カズオ・イシグロの新作『The Buried Giant』を購入しました。彼の『私を離さないで(Never let me go)』以来10年ぶりの長編の新作で大いに話題になっています。原著は3月に出版されたばかりで楽しみに読み始めているところですが、これがすでに邦訳されて本屋に並んでいるのに驚きました。
出版前に原稿が入手できたのか事情は素人にはまったく分かりませんが、おそらくカーペンターさん同様に悩みながら翻訳されたであろう割りには驚くべき早さです。
お陰さまで時々邦訳を本屋で立ち読みして確認しながら、原書を読み続けようと思っています。