テロはパリだけではないが、いま「自由」と「寛容」は・・・

駒場の東大は本日駒場祭。前の日のイチョウ並木を歩きながらいろいろ考えたことです。

1. 前回のブログを書いたのは、パリ市内でのテロの翌日でした。
直感的に感じた問題と危惧として
(1) 右翼の国民戦線&ポピュリストは?
(2) フランスに住むイスラム系移民の人たちは?
(3) 欧州全体の反発と危機感は?
(4) シリア難民への逆風は?⇒メルケル首相への逆風ともなる
(5) プーチンの存在感は?
(6) 英国の対大陸距離感は?
をあげました。誰もが同じようこと感じただろうと思います。
その後の状況を見ると、残念ながらこのうちの多くが現実になっているようです。

以上にもう1つ加えると
(7)さらなるテロの危機、ということでしょう。
そもそも、今回だって、パリだけではなく、その約1カ月前にはトルコのアンカラで、2週間前にはロシア飛行機のシナイ半島での墜落、パリの前日にはベイルートで、そして昨日は、西アフリカのマリ(正直言って、私には馴染みのない場所です)で、テロが起きて多くの死者が出ました。
テロはもはやどこで起きてもおかしくない。そんな時代に生きていることを実感します。
もちろん夫々が悲劇で本来は同じ眼で眺め・悲しまなければいけないと思います。
しかしその中でどうしてもパリの事件が大きく報道される・・・
これはある程度は已むを得ないことかもしれません。
その理由には、個別の悲劇ということだけではなく、西欧の価値観そのものが挑戦を受けて危機に面しているという思いがあるからではないか。


17~18世紀の「近代」以来、英国のジョン・ロックやフランスのルソーが提示してきた「自由」と「寛容」というリベラリズムのもっとも大事な価値観が、いまそれを生んだ西欧そのもので揺らいでいる、という危機感が大きいのではないか、という気がします。
「人は、不寛容に対しても寛容でありうるか?」
そんなことを誰もが無意識でも感じたのではないでしょうか。
「人間はもともとの自然状態を脱し、生命・自由・財産を守るために社会契約を結び、共同体・国家(コモンウェルス)を結成するのだ」というロックやルソーの主張(それはアメリカ独立宣言にも力強く宣言されている訳ですが)にも拘わらず、

世界は依然として「自然状態」「無法状態」ではないのか?
「近代」を特徴づけ、それ以来、私たちの支えになってきた、「人間の理性」「進歩」「啓蒙」あるいは「自由」といった価値観は、20世紀になって、2つの世界大戦、アウシュビッツヒロシマナガサキを経て、大いなる挑戦を受け、
その後の、国連の創設や、EUの理想や、グローバリゼーションや民主化の進展にも拘わず、今また更なる挑戦を受けている・・・・


「理性」や「進歩」は信じられるのか?「自由」は守れるのか?
そういうヨーロッパ発祥の価値観への根源的な懐疑と不安が、何となく人々の心に芽生えてきた・・・・それがパリのテロではなかったか、という気がしています。


2. 11月15日の英国エコノミスト誌(電子版)は、「“シャルリエブド”の時は言論の自由がイシュウだった。しかし、今回は移民問題になっている」
という表題で、今年1月に起きたパリの新聞社襲撃事件と今回との、人々の対応の違いを伝えています。

―――1月の悲劇(パリにある風刺週刊紙「シャルリエブド」の本社を、銃で武装したイスラム過激派が襲撃した事件。同誌編集長やコラムニスト、マンガ家など12人が殺害された)の時は、
ヨーロッパ文明の基本的な原理である「言論の自由」を叫んで、百万を超える人たちが抗議のデモを行った。国内外からも多くの指導者たちが参加した。

同時に、この悲劇によって、イスラム系の人たち一般への敵意や脅迫が起きないようにという呼びかけも多かった。
「シャルリエブド」の襲撃者たちの残虐な行動は、むしろヨーロッパの人たちを、「言論の自由・信仰の自由」という自らの理想や価値を再確認し、思いを強める機会ともなった。


しかし、(残念ながら)今回は違う。

今回の事件が、普通の庶民の集う公共の場所(カンボジア料理店、サッカー競技場、コンサート・ホール)を無差別に狙った行動だということも大きい。
多くのヨーロッパの人たちは、今回の暴力と悲劇を、ここ半年彼らにとって最大の関心事の1つである難民の流入(ドイツであれば今年中に百万人を越えるのではないかと予想される)と結びつけて考え始めたのだ。

やはり、まさに、「自由と寛容」が問われているということなのだ・・・・・



3. そんなことをあれこれ考えていたら、
ご存知の方も多いでしょうが、日本の新聞で、
「テロリストへ「私は憎しみを贈らない。君たちの負けだ」という見出しで、事件で妻を失ったフランス人のあるジャーナリストがフェイフブックに載せた言葉が世界中で共感を呼んでいるという記事を読みました。

20日東京新聞夕刊に載った、邦訳の一部を、長いですが以下に引用します。


「金曜日の夜、君たちはかけがいのない人の命を奪い去った。私の最愛の妻、そして息子の母を。
でも、私は君たちに憎しみを与えない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。(略)
私は決して、君たちに憎しみという贈り物を贈らない。
君たちはそれを望むだろうが、怒りで応えることは、君たちと同じ無知に屈することになってしまう。君たちは、私が恐怖し、周囲の人を疑いのまなざしで見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。
だが、君たちの負けだ。私は、まだ私のままだ。(略)
もちろん私は悲しみにうちひしがれている。だから、君たちのわずかな勝利を認めよう。でもそれは長くは続かない。妻は、いつも私たちと一緒に歩む。そして、君たちが決して行き着くことができない天國の高みで、私たちは再び出会うだろう。
私と息子は2人になった。でも私たちは世界のいかなる軍隊よりも強いんだ。私が君たちに費やす時間はもうない。昼寝から目覚めた(息子の)メルビルと会わなくてはならない。彼は毎日、おやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。
この幼い子の人生が幸せで、自由であることが君たちを辱めるだろう。君たちは彼の憎しみを受け取ることは決してないのだから。」

果たして、自分もこのように言えるだろうか、と考えました。

ここに、世界でたった1人かもしれないけど、昨日まで想像もしなかったような悲劇に見舞われても、自らが信じる「自由」と「寛容」という価値を必死になって守ろうとする崇高な知性が存在すると感じました。